理想の多様性社会は身近にあった
みなさんお疲れ様です。
どうしても年賀状を書きたくない夏木です。
「手書きの温かみ」とか「遠方の人からの便り」を楽しみにしている人もいるので、別に年賀状自体を否定するつもりはないです。
ただ「LINEとかメールで良いじゃん…」と思ってしまいます。
何故なら私は字が超絶汚いから。
さて、すっかり市民権を得た「多様性社会」という言葉。
私はこのワードに常々疑問を持っています。
多様性社会の実現って結局無理だよね?と感じているからです。
今日はそういうお話。
ダイバーシティ(多様性社会)とは
今更説明するまでも無いとは思うが、元WEBライターの性として一応引用しておく。
物凄くざっくり言うと「自分と違う考え方の人も認めて受け入れようね!」ということである。
文章にすると至極真っ当に感じるし、むしろ当たり前のようにも思われる。
が、人間というのはそこまで合理的にも機械的にも出来ていないので、個々人で意識しなければ実現は難しいのだ。
もちろん私も多様性社会の実現は良いことだと思っている。
しかし先に引用した文章でどうしても気になる部分がある。
異なる「価値観」を受け入れるのって無理じゃね?
子無しには想定外
数年前、子持ちの友人とランチに行く約束をした時のこと。
久しぶりに会えるのが嬉しくて、私は彼女に「どんなお店が良い?」と聞いた。
「この前〇〇にオープンしたイタリアン行きたいー!あ、子供も連れて行くからベビーチェアがあると良いなぁ♡」
彼女は1歳の娘さんを連れて来るという。
いや、別にそれは良いのだ。
私も赤ちゃん見たいし。
しかし彼女の指定してきたレストランはあまりお子様向けではない。
むしろ「大人のための上質なリストランテ」を謳っている。
ベビーチェアが用意してあるとは到底思えない。
私は彼女を説得し、お子様受け入れ体制もあるレストランを探して予約した。
もうこの時点でHPをだいぶ削られているが、彼女と可愛い赤ちゃんを見るためなら屁でもない。
当日。
ベビーチェアに座った赤ちゃんはめちゃくちゃ可愛く、そして友人も元気そうで私はウキウキしながら食事を注文した。
ところが。
赤ちゃんはすぐにグズり始め、テーブルに置いてあったカトラリーを薙ぎ倒し始めた。
理解することの難しさ
床に落ちる金属音に静まり返る店内。
私は慌ててナイフやフォークを拾い、店員さんに新しいカトラリーをお願いした。
そして友人に囁いたのだ。
「なんか赤ちゃんの気が紛れるようなオモチャとか、持ってきてない?」
「あー、今日は持ってきて無いんだよねー」
私には子供がいない。
だから真の意味での「お母さん・お父さんの気持ち」を分かってあげることが出来ない。
彼女はハンバーグランチを注文したのだが、赤ちゃんが抱っこをせがむのでハンバーグにナイフを入れることすら無理な状況。
見かねた私は彼女のハンバーグをテーブルの向かい側からナイフとフォークで一口大に切り分けてあげた。
私は思った。
これは同じ境遇の人でなければ共有できないことだな、と。
子供がいる人間といない人間ではどうしても価値感にズレが生じる。
もし私に子供がいたら、もっとスマートに対応してあげられたかもしれない。
少し憂鬱な気分になってしまった。
赤ちゃんの動向が気になって、ゆっくり食事を楽しんだり彼女と深い話をすることも不可能だったから。
相手の立場や大変さに同情したり、理解しようと努めることは出来る。
しかし経験していないことを自分事として考えるには限界があるな、と。
異論は認めなくても良い
自分と違う考え方の人も受け入れる。
とても耳障りが良く、素敵な言葉だ。
しかし現実はどうだろう。
本当に自分と違う意見の人を受け入れてニッコリ笑えるだろうか。
それは出来ないし、出来ないのが人間だと思う。
では多様性社会の実現は砂上の楼閣なのか。
ここまで考えて私は気付いた。
noteがそれをもう実現しているじゃないかと。
みなさん御存知の通り、noteは他のSNSに比べて非常に民度が高く、批判や攻撃的なコメントも少ない。
もちろんゼロではないが、Twitterなどに比べればかなり自由に発言ができる。
それはnote全体に「自分が同意できない記事はスルーしましょう」という空気感があるからだと思う。
攻撃ではなく、スルー。
これをそのまま現実世界に当てはめれば、多様性社会の実現もグッと近付くと思うのだ。
自分が受け入れられない特性・性嗜好・考え方を攻撃しない。
でも無理に受け入れたり同意しなくていい。
スルーする。
「無視もイジメ」という人に絡まれるかもしれないが、私はあえて言う。
自分の興味のないことにまで配慮していたら、私の人生を楽しむ時間がなくなるよ。
みなさんちゃんと、自分ファーストに生きられてますか?
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