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【映画レポ】好奇心は人を殺す|クリストファー・ノーラン監督「オッペンハイマー」

3月29日に日本でも封切りとなった映画「オッペンハイマー」。
「原爆の父」と呼ばれる物理学者・オッペンハイマーの半生を描いた伝記作品である。

観るか否か少々迷っていたのだが、ちょうど時間が出来たのでひとりで観に行ってみた。
すでに多くの方が感想を発信しているので、私はこの映画の背景や観るに当たっての注意点に重きを置いて書いてみようと思う。

※作品のあらすじには触れますが、核心部分のネタバレはありません



日本での公開が延期になった理由

「オッペンハイマー」は2023年7月21日に全米で公開された。
昨今はハリウッド映画も世界同時公開となる例が増えたものの、本作の日本での上映は延期に延期を重ねた。

何故か。
日本で公開するには憂慮すべき事項がいくつかあったからだ。

まず題材が「原爆」であること。
8月は日本にとって特別な月である。
真夏の公開となれば、実際に観てもいない人間がネットで批判を繰り広げるのは自明の理。

次に「バーベンハイマー騒動」。
当時アメリカではバービー人形をモチーフとした映画「バービー」が同時期に公開されていたため「オッペンハイマー」と「バービー」をハシゴして観る現象が流行った。

これを機に、キノコ雲を背景にしてオッペンハイマーが笑顔のバービーを肩に担ぐ画像がファンの間で次々と作られ、ネット上に拡散されたのだ。
原爆軽視とも取れるようなこれらの投稿に対し、公式アカウントが好意的な反応をしてしまったことで炎上。
公式アカウントは謝罪と共にコメントを削除したが、これによって「オッペンハイマー」(「バービー」もだが)への日本からの印象は更に悪くなった。

しかし第96回アカデミー賞において「オッペンハイマー」が作品賞を始めとした計7賞を獲得したことにより、風向きが大きく変わる。
アカデミー賞作品、それもクリストファー・ノーラン監督とあらば関心を持つ日本人も多い。

こうして全米公開から8ヶ月後、ようやく本作品は日本に上陸した。



メッセージ性を押し付けない監督

クリストファー・ノーランの映画を観たことがある人なら分かると思うが、彼は作品に自分の主張を入れない監督である。

私は映画を通して特定のメッセージを伝えようとは思いません。映画製作者としては、何よりもまず、観客に感情的な体験、感情的な反応を生み出すことを目指しています。

NHK「クリストファー・ノーラン監督インタビュー

映画を撮る原動力としての個人的な想いはあるだろうが、ノーラン監督はあくまでも「考えるキッカケになってほしい」と、観客の受け取り方に委ねる作りをする人だ。
観賞前にこれを知っているかどうかは非常に大事なことである。

原爆の父を題材にするのだから、当然監督は作品上で「反核」を訴えたりオッペンハイマーの後悔を描くのだろう。
などと思って観に行ってはいけない。

彼が撮ったのは、ひとりの物理学者の半生である。
そこに余計な主義主張は存在しない。
オッペンハイマーが何をし、何を考え、何を悩んだのか。
伝記として映した作品であることを忘れてはいけない。



日本人と原爆とアメリカ人

日本に生まれると、物心ついた頃から原爆について学ばされる。
その悲惨さを訴えた絵本・書籍・漫画・映画・ドラマがこの国には溢れていて、日本人の共通認識として「原爆は悪」という教育が行き届いているのだ。

一方アメリカ側からすると「原爆で戦争を終わらせたという事実」がある。
これは単純に戦勝国と敗戦国のマインドの違いであるということを分かって頂きたい。
負けて痛手を負った者の気持ちは勝った者には分からないし、逆も然りなのだ。

フォロワーの真文さんが、本作品の下記感想記事の中でこんなことをおっしゃっていた。

そして私くらいの世代の日本人だと、やっぱりその「苦悩」の部分に注目してしまう。
 
どのくらい苦悩しているのか?
ちょっと多めに苦悩してて欲しいな。

いや、全く苦悩していないのが事実であるならば、全く苦悩していない人間の物語というのも観てみたい気はするけれど、やっぱり幼い頃から「原爆の悲惨さ」を見聞きしてきた日本人とすれば、せめて苦悩してて欲しい、という気持ちにどうしてもなってしまうものです。

記事より抜粋

日本人として育ったからには、やはり「広島と長崎の悲惨さを描いていてほしい」「オッペンハイマーに後悔していてほしい」という感情が湧いてくるのは当然のこと。

だから原爆投下に際して「大成功だ!」と沸き立つアメリカ人たちの場面にはやはり共感できない。
これはもう立ち位置の違いなので仕方無いことだ。

今から本作品を観ようとしている人に伝えたい。
どうか日本人側としての期待をせずに見て欲しい。

繰り返すが伝記映画である。
原爆の悲惨さを広めようとしているわけでも、核軍縮を訴えているわけでもない。
ただ途方も無い殺戮兵器を作ってしまった男の話なのだ。



開発者に罪はあるのか

ノーベル賞で知られるアルフレッド・ノーベルはダイナマイトの開発者だ。
元々ノーベルはトンネル工事で作業をスムーズに進めるために研究を重ね、ダイナマイトを作り上げた。

日本では2004年、東京大学大学院の助手だった男性が開発した「Winny」というファイル共有ソフトが著作権法違反に問われた。
この際、裁判の中で被告は「犯罪に使われた包丁を作った職人は罪に問われるのか」と世に問いただしたのだ。

ダイナマイトもWinnyも包丁も、人に害を与えるために開発した物ではない。
使う人間の方針によって悪用されたのだ。

では原子爆弾は?

少なくともオッペンハイマーは自分の作ろうとしている物が大量殺戮兵器であることを知っていた。
だが、彼がこの兵器の開発を拒否していたら歴史は変わったのだろうか。

答えは否だ。

オッペンハイマーが去っていたとしても、すぐに他の優秀な物理学者が現れて原子爆弾は作られただろう。
人間の知的好奇心を止めることは出来ない。

原子爆弾の次は水素爆弾、そしてこれからもっと悪辣でもっと手軽な殺戮兵器は開発される。
人間が知的好奇心を持つ限り、プロメテウスのように神の業火に焼かれようとも、その衝動を止めることは誰にも出来ないのだ。

最後に三島由紀夫の言葉を紹介してこの記事を終わります。

好奇心には道徳がないものである。
もしかするとそれは人間のもちうるもっとも不徳な欲望かもしれない。


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