感性は牢獄に似ている


 人間の皮一枚、へだてたところはすでに宇宙だと知っているから吐き気がする。私の宇宙。あなたの宇宙。みんなの宇宙。ああ、まじわることはない。けっして。人間であるわれわれにできることがあるとすればせいぜいそれらを類推し想像し、きっと、この、宇宙のごとしと思いを馳せることだけなのだ、ああ。
 共感も理解もへったくれもあったもんかい。そんなものはイメージでしかない。だがそんなものにすがらねばいけない私はきっとどこまでも人間なのだと、突きつけられる。
 真理を知った。それはけっこう。しかして、どうなる? 人間である以上はなにひとつとして知りえないのだ。それを哀れと笑う声がする。自分のものか。はたまた、超越的な存在か。どちらでもいい。どちらも識別できない自分自身の感覚の牢獄が、いちばんおぞましいのだから。

 もちろんだれしも広義の意味においての個性はもちえる、その程度の意味で私も私として個性的であろう。私は文章を書く。文体が独特、それはきっとだれしも広義の意味においてもちえるそれと思っていたしいるけれども、どうにも個性のなかでも個性的という評価もあるいはあったり、するかもしれない。
 しかり、たしかに私はなにを書いても自分の文章になる、本来的にそれはみなそうであろうが。
 私は自分の文体でしか世界を記述できないことが、すごく、気持ち悪い。

 おぞましいのだ。自分の感性が。
 どこまでいってもこのように世界を受け取ってしまう自分の、感性は、……牢獄に似ている。

 閉じ込められるの好きじゃんなんて、そんな冗談、言わないでよ、私はその手のことばにひそむ真理にはけっこう徹底的に打ちのめされ、ます。

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