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ディスレクシアとしての生き方(失読症の読書態度)

幼い頃から活字よりも音楽や映像の方が好きだった。
言語と身体が即時に一致するから。

活字は脳と身体がリンクするのに時差があるのを感じていた。そしてこんなに時差があるのに面白くない本に当たってしまう時だってある。本は自動的にリスクを負わせ、定期的に私をどっしり疲れさせる。

8つ離れた兄姉から面白いよと勧められた軽めのコミックを読むだけでも2〜3時間かかってしまう。数十分経ってるのにまだ1/10くらいしか進んでいない私を見て「まだそこなの?遅っ!」って言われるのも恐怖で読書は大嫌いだった。マンガですら読むスピードを強いられるのか…と絶望した。若干7才の記憶。(あのマンガはちびまる子ちゃんだったかしら。ちなみに姉も兄も優しい人なのでその発言に意地悪な意図はない。)

それがキッカケというわけでもないが、それからも本をなるべく遠ざけて過ごしていた。

でも大学を卒業するまで日本のテストは速読と即答が求められ続ける。

幸い、私は問題処理能力だけはそれなりに高かったので、読むのは遅いが読めればそれなりにすぐに解けた。だから小中のテストでは苦労をしなかった。

しかし読むのに人の3倍かかるとやはり大学受験など人生の要ではかなりの痛手になる。

同じ参考書を何周も読んで知識を定着させたいのに、読むのが遅いだけで必然的に繰り返す量が減る。同級生と同量の努力では同質の知識が定着しない。

だから大学受験は私にとってかなりの苦悩があった。でもこのハンデは幼い頃からの読書量の差であって私の積み重ねの責任だ!と甘んじて受け入れていた。


第一志望合格!とはいかずとも、なんとなくの国立大学には引っかかることができた。受験の神様ありがとう。

しかし何かがおかしい。

どんなに本を避けてきたとはいえ、これだけの量の問題集やテキストを毎日読んでて、自分の読書スピードが7才の頃から一向に上がらないのはさすがに変じゃないか?ただの努力と経験不足によるコンプレックスだと思っていたが、さすがに変だ。

そしてディスレクシアという発達障害の症例を発見した。失読症ともいい、重度の人だと書き取りも読み取りもうまく繋がらない脳の障害らしい。

いやいやぁ、私は書道が得意で字も綺麗に書けるしこの障害ではないなぁ!!と思いつつ、音読が極端に苦手・音読時には意味を一切理解できない・視覚で認識した字をすぐに意味として判断しにくい、英語の綴りの判断が苦手など、とにかく当てはまることが多くて不安になった。

いずれにせよ診断してもらって悪いことはないよなぁと思い、結果がどちらであっても改善できるならと専門病院に行った。


結果は軽度のディスレクシア。
活字を見た時、または規則的な配列を認識した時に、かなり脳が混乱してバグを起こしているらしいのだ。

話は少しそれるが、私はピアノを弾くのが大好きだ。だけど同時に、小さい時からたまにピアノがものすごく歪んでうねってしまう瞬間があった。めまいだと思ってやり過ごしていたが、あれもこの症状の1つだったのかな……先生には聞いてないのだけれど、少し納得した。(実際は全然関係ないのかも笑)

で、どうすれば治るのか?というと、治りはしないらしい。笑

ただ、わたしの場合は軽度なので、ある程度他の能力で補うことができているらしく、通常の人よりゆっくりだけれど読書に関しては工夫してもう少し早く読めるようになるみたいだし、ちょっとずつ向上できればとおもう。

私より重度な人は本当に文字そのものを視認したり書き起こすことすら困難なようなので、誰かがディスレクシアと聞いて、わたし程度のものだと思わないでほしい。これは最近ポップに使われてる「わたしADHDだから」みたいな変な「障害のブランド性」にも通ずること。全ての発達障害・学習障害に言えることだが、重度であったり複合的に障害を負っている場合、社会生活が困難で大変な思い、理解が得られず悲しい思いをしている。なので発達障害や学習障害をポップなマイノリティブランドに利用するのを本当に控えてほしいんだ……。

だから私もあえてプロフィールなどに書いたりはしない。だけど別に隠すことでもないと思ってる。どちらにしてもそこに私のアイデンティティはない。

ここを深く掘ると言いたいことはたくさんあるので別の機会に話すとして、今回は活字と対峙するただの自分語りに戻させてもらう。

わたしは知的好奇心がわりと高いタイプだと思うのだけれど、情報収集のスピードが他人の3〜5倍かかるものだから色々とストレスはたまる。手に入れたい情報がこの手のひらに包まれているのに、ぜんぜん進まないもどかしさは本当につらい。

それでも知ろうとしないかぎり、知ることができないキラキラとしたものがこの世にはたくさんあるから。苦手だけれど、嫌いにはならないようにしようと努力している。

この手に広がる知の海の水を、一粒だけでいいからそれをこぼさないように私の中にとりこんで。

繰り返し咀嚼し反芻できるほど読み込めないのだけど。

みんなよりゆっくりな分、みんなより繰り返せない分、私に入ってきた1回を大切にしたい。いつか私の中から消えてしまうとしても。

私は他人より、1度の言葉が3倍重たくきらめいてるんだもんって思えるように。

私を確実に消耗させながら、不確実に充満させる一冊をまた手に取る。

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