人と違うことを恐れない。

さて、私が繰り返し考えていることについて書こうと思う。

「人と違う自分である」

ということについてだ。

私の能力が優れているとか、何か際立った特技があるだとか、そんなことを言いたいのではない。

幼少期のエピソードを紹介したい。

私は生まれつき近視が強く、物心つく前から眼鏡をかけていた。自分にとって眼鏡は何てこともない、必要なものだ。

小学校にあがってしばらく経った。あるとき友人が、眼鏡見せて!掛けさせて!と言ってくることがあった。もちろん友人には全く悪気がない。
好奇心を押さえられないのだから仕方がないが、私はなんだかバカにされているような、自分がまるで「普通じゃない」と言われているようで、「やだ!」と言ってすねることしかできなかった。

そこで初めて、自分のメガネの度の強さに気づいた。眼鏡をかけ始める子も周りにいなくはなかったが、かけると目が小さくなるし、レンズの幅は小学生とは思えないほど厚い。
そして眼鏡はそのときから、私のコンプレックスに変わった。

結局、度の進行が眼鏡より遅いというお医者さんの助言で、小学5年生のときにコンタクトに変えることになった。

もちろん、小学生で周りにコンタクトをしている人はいなかったし、眼科で練習し、最初は手伝ってもらいながら、あるときはどうしてもできず、そして次第に慣れ、学校にもしていっていいということになった。
「これで周りと同じになった!」と喜んだのを覚えている。
そして中高に上がる。誰も眼鏡時代の私を知らない。でも眼鏡のことを言われなくないから、修学旅行のときは本当に寝る直前に外し、朝は誰よりも早く起きて洗面台に急ぎ、コンタクトを付ける。そうやって本当の自分を偽ってきた。

それから15年のときが経ち…

違うエピソードも紹介したい。
私は社会人時代、金融会社に勤めていた。
そこで2年に満たず退職しカナダに渡ることになったのだが、
口々に「お母さんは反対しなかったの?」とか、「よく辞める決断したね(よくできたね、という意味に受け取っている)」とか言われた。
少なくとも3年働くのが常だから、突っ込みたくなるのも無理はない。
周りと違う生き方をすることに関して、日本人はすごく敏感だと思う。

そしてカナダに来た。
生活するなかで、そして仕事でインタビューするなかで、
夢を追っている人々や、仕事に誇りを持っている人、本当にたくさんの人に出会えた。

私は今では、眼鏡の自分を受け入れることができるようになったし、なにかを言うことをあまり躊躇しなくなった。
自分の好きなもの、趣味、スタイル…人と違うことを恐れなくなった。
「阪神タイガースが好き!」とか、
「海外パンクロックが好き!」とか、
「私はこのドラマの中で○○が一番好き!」とか、今では声高に言える。

なぜだろう。
眼鏡はわたしの一部であって、わたしではない。私は新八(銀魂の主要キャラクター)ではないし(笑)、私は眼鏡ではない。あくまでもわたしの特徴の一つ、アイデンティティの一つ。

意見や好みも、一緒。
あくまで発言は、わたしの一部。わたしのすべてではない。構成分子の一つ。
そう思ったら、表に出すことが少し簡単になるのではないか。
 
生き方も、一緒。
人と違うことを貫いている人の方が、今ではカッコいいと思える。

今では、自分に正直でないことの方が、
こわい。
何か違う方向になったとき、誰かや環境を責めることは簡単だが、私は自分が決めた人生を生きたい。

自分が変われたことは進歩。
夢のまた夢だが、いつか、「誰もが人と違うことを恐れないで生きれる、やりたいことをちゃんと言える国、日本」が実現してほしい。
本当の意味での多様性がある日本。
たくさんのカラーを持つ人が生きやすくなる国日本。

そして私は、今も闘いを続けている。

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