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「推し」という言葉が広がって、改めて考え直した推す意味

私はこれまで「推し」という言葉を用いて、私の生きる糧になっているコンテンツや人物、また、推しに出会ったからこその生き様や考え方も紹介しています。

熱狂的・稚拙な文で読むのが恥ずかしいと思いながらも、この「推し」という価値観に少しだけ変化したと思ったので今考えている「推し」との向き合い方を記録していこうと思います。たかだか1年ちょっとでここまで変わるんだと面白かったです。

「推しがいた方が人生楽しい」からと言って無理に作らないで

私は声優の福山潤さん・SixTONES・志尊淳さんの追っかけです。ファンクラブやイベントの応募、グッズなどオタ活として課金をしています。
この方々を見ていると「自分が生きているな」という重すぎる感情を持っていました。見ているだけでいい、笑顔になれるそんな存在でした。

そんな存在ってできる方が変ではないですか?現実世界であまりにも充実していない寂しい人と思うことがあるのです。現実さえ充実していれば「推し」に出会うことはないですし、熱狂的になることもないのだと思うのです。依存しすぎていると気付いてこの推し方を変えようと思ったのです。
だから、最近は推しに関する考え方が変わりました。
見ているだけで自分の今の世界を変えたいと思うきっかけと生きる活力をくれたと考えるようになりました。

だから、推しがいた方がいいのかと悩む方には現実世界で満たされているのなら、推し関係なく「〇〇が好き」と思うことや発言は自由だと思うのです。

推し疲れってなんだろうか

XやYouTubeでたまに取り上げられる「推し疲れ」という言葉を最近見るようになりました。
周囲の方々のグッズの購買力やイベントの参加率、マウントの取り合い…
そういったことで推しが好きなのにいったん離れたくなってしまうそうです。また、好きで推していたのに義務に感じてしまって嫌気がさしてしまうものらしいです。

幸いなことに私は「推し疲れ」とは無縁の生活をしています。前述した通り、生きる意味を推しに感じてしまっていたり、どこかで推しが生活しているを考えたりしていることで日々の活力を見出しています。
もちろん、コンテンツがないと熱量に差は生まれます。推し活で常に同じ熱量で応援は難しいと思っています。
しかし、最低ラインは推しに憧れを抱いているためそのように生きていたいと思うため同担を見ていないんだなと思いました。
推し疲れをしないためにも自分の好きなように推しましょう。人生を彩ってくれる存在を足枷にしないことで疲れることはないんだなと思います。

「推し」がいたから私はありのままでいられる

結局は、職場や友人で無理している部分・気を遣っている部分もあることから、推しに使う時間がストレスなく過ごせている時間でもあるなと思うのです。
しかし、そんな生活も長く続くことはないと思っているので、自分のライフスタイルの見直しを始めようと思いました。
推しのように人生に責任感を持って過ごしたい、自慢の推しと肩を並べて歩いている錯覚を持てるように頑張りたいと思うのです。
結局は、どこかで推しが生きている、その事実を考えるだけでもう少し頑張ろうと思えるのが私の重すぎる「推し」への想いです。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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