アイドル、シンガー、ときのそら ―「My Loving」リリースに寄せて

2017年9月7日、一人の17歳の少女がある道へ足を踏み出しました。それは「アイドル」というほんの一握りの人間にしか成ることができない存在を目指す道。その道のりは決して順調ではありませんでしたが、彼女を信じ続けた親友やスタッフ、ファン、そして彼女自身の努力の積み重ねが実を結び、彼女はいま「アイドル」と呼ばれるに相応しい存在に成ることができました。
彼女の名前はときのそら。2019年3月にフルアルバム「Dreaming!」でメジャーデビューを果たし、同年10月にはワンマンライブ「Dream!」を開催、TVドラマ主演や写真集出版など多岐にわたる活動も目白押しの、今を輝くバーチャルアイドルです。そんな彼女が2020年3月4日、2ndタイトルであるミニアルバム「My Loving」をリリースしました。この作品を通じて、いまの「ときのそら」という存在を考えてみたいと思います。

アイドルとシンガー

歌手と呼ばれる人々の中に、アイドルとシンガーという二つの存在があります。
アイドルとは原義を辿ると「偶像」の意であり、宗教における偶像崇拝のように、自身の魅力を以て多くの人々に幸せを与える存在であると言えます。そして歌手としてのアイドルの歌は、アイドル自身の魅力を表現する、つまり自分自身を伝える歌になってきます。例えば松田聖子の「赤いスイートピー」を聴いたとき、当時の多くの人は歌詞で描かれるヒロインに聖子ちゃん自身を投影させていたのではないかと思います。同じように、アイドルは歌で「自分」を伝えていると捉えることができましょう。
対してシンガーというのは文字通り歌を歌う人であり、楽譜や文字でしか表現し得ない歌を、自らの身体を媒介として人々に聴かせ伝える存在です。したがって、シンガーは歌で「歌」を伝えていると言うことができます。アイドルは歌で「自分」を伝え、シンガーは歌で「歌」を伝える。ここに、アイドルとシンガーの一番の違いがあると私は思っています。
ときのそらが目指してきたものはアイドルでした。そしてそれは今も変わっていません。ですが、もはやアイドルと呼ばれるに相応しい存在になった彼女は、さらに一歩進もうとしている―「シンガー」という存在にもなりつつあると、今回のミニアルバムで私は確信しました。1曲目の「Equation of Love」は直訳すると「恋の方程式」で、ことあるごとに数学用語にたとえるような恋に不器用なヒロインが描かれていますが、ここに描かれているヒロインは必ずしも「ときのそら」ではないのではないか、と最初聴いたときに感じたのです。彼女は数学が特段得意というわけでもありませんし、高校も卒業しています。ときのそらを投影して鑑賞することもできるけれども、必ずしもそうではなく歌を歌そのものとして聴くこともできるのではないか―つまり、ときのそらが「シンガー」である可能性を、1曲目で感じ取ったのです。続く2曲目「Wonderland」は転じていかにもときのそららしいポップで楽しい歌で、今作のコマーシャルにも用いられていたようにアイドルである今のときのそらをよく表した曲となっていましたが、3曲目「サヨナラブロッサム」で一気に空気が変わります。春の別れを描いたこのバラードでは、トレイラーではときのそら自身を想起させるような演出が見られましたが、しかしここで見せた彼女の表現力は真に迫るものがあり、歌単体での解釈も十二分に可能な高い完成度を成しています。そしてその次に流れ出す4曲目「刹那ティックコード」で、私は、ときのそらは「シンガー」でもあると確信したのです。曲自体が「歌」そのものをテーマに歌い込んでいるまさに歌のための歌であり、それを彼女はホロライブプロダクションが誇る最高のシンガー・AZKiと共演/競演して魅せ、表現しきったのです。この瞬間、ときのそらは間違いなく「シンガー」でした。
ただしこの次の5曲目「フレ―フレーLOVE」はこれでもかというほどの2010年代王道アイドルソングに仕上がっており、立ち返って改めて彼女がアイドルであることを思い出させます。この辺りの構成の妙味も本作の見どころであると言えましょう。

少女と女性

アイドルは自身の魅力を以て人々を幸せにする、と先述しましたが、具体的にアイドルが持つ魅力とは何か、その一つには少女性があります。少女性とはむしろセクシャルな意味ではなく、少女特有の純真無垢や清楚、若々しい活気を意味します。より本質的な説明は川端康成「伊豆の踊子」や太宰治「美少女」といった文学作品に譲りますが(肉体的な若々しさについては与謝野晶子の短歌も秀逸ですが、あちらはややセクシャルなので…)、ともかく少女という存在はそれだけで少女性という魅力を兼ね備えているとすら言うことができます。そしてアイドルの多くは、この少女性―純真無垢で清楚、そして若々しさ―を自身の魅力として振りまいています。
しかし誰しもがいつまでも少女で居続けられるわけはありません。歳を重ねるごとに、少女は女性に為っていくのです。そしてそれは、アイドルはアイドルで居続けることはできないという残酷な事実を暗喩しています。
ときのそらは2017年に17歳で活動を始め、今年2020年の5月15日に20歳を迎えようとしています。成人という大きな節目を目前に控えた彼女にとって、少女からの卒業―女性への脱皮という動きが少しずつ生じつつあるのだと、私は思います。2019年6月、ワンマンライブを控えた彼女は3Dモデルを一新し、前よりも少し大人びた印象を与える新モデルを彼女は「お化粧ができるようになった」と表現しました。同年12月には資生堂の化粧品ブランド・インテグレートとのタイアップ動画を公開してもいます。
そして、そうした少女から女性への変容に呼応するように、アイドルだけでなくシンガーにも為りつつあるという歌手活動の変容が生じているように私には感じられます。もちろん20歳という年齢はアイドルとして十分若いですが、それでも10代の少女のままでは居られません。少しずつ少女から女性に為っていく中で、同じようにただアイドルのままで居るだけでなくシンガーにも為っていくという動きは、ときのそらの成長をよく現しているのだと言えましょう。―そしていつか、彼女がアイドルで居ることができなくなってしまったとき、彼女は紛れもないシンガーに為るのだと私は思っています。先に例示した伝説のアイドル・松田聖子は24歳のとき、「瑠璃色の地球」という名曲をリリースしましたが、この曲は前年に結婚した彼女が妊娠のために休業する直前に収録されました。少女―アイドルという存在を完全に卒業し、一人の女性に為った彼女が歌ったこの曲は、まぎれもなく彼女が「シンガー」として歌を歌として伝えていたのです。

「ときのそら」という存在

アイドル―少女、シンガー―女性という新たな二面性を見出し始めた彼女が、今作の最後に歌った曲は、そのどちらでもない「彼女」が歌っていました。6曲目「ゆっくり走れば風は吹く」―ときのそらの活動を初期から見守っていた瀬名航氏が提供したこの曲は、アイドルが自己表現として歌う歌でも、またシンガーが歌うような歌それだけで独立したような歌でもなく、「ときのそら」という存在そのものを彼女自身が歌い、だからこそ完成する歌になっています。決して順調ではなかった道のりを、そしてその中で彼女が経験してきた苦悩や頑張りを、活動開始から今までの2年半を、この1曲に表現したと言っても過言ではない曲です。
今に至るまでの2年半で、彼女は様々な成長と変化をしてきました。それはここでは言い尽くせないほどです。そして、そうした成長と変化を経験し、20曲以上の持ち曲とワンマンライブの成功、さらに様々な活動実績を手にした今の「ときのそら」は、かつて配信で「たくさん歌を出して、自分の曲とかも欲しいし、いつか横浜アリーナとかでライブとかをやっていきたいなと思います!」とたどたどしい口調で決意を口にしていたあの頃の「ときのそら」とはもう違う存在なのでしょうか。
…そんなことはないのです。あの日から今までずっと、彼女は一つの夢に向かって走り続けてきました。その中で多くのファンを魅了し、多くの仲間にも囲まれ、数多の成長と変化を繰り返す―そうした動的な姿こそが「ときのそら」という存在なのだと私は信じます。心理学におけるアイデンティティ理論においてアイデンティティとは「時間的に不変な“斉一性”と時間的に変化する“連続性”の一致」とされていますが、彼女にとっては「横浜アリーナでライブ」という夢を変わらない根底に、そこに向かって成長し変わっていく姿こそが、「ときのそら」という存在のアイデンティティであると言えましょう。
―「ゆっくり走れば風は吹く」という曲を以て、ときのそらがアイドルだけでなくシンガーへ、少女から女性へと成長と変化を見せた今作「My Loving」の一番最後で、彼女にとっての「変わらないもの」と「変わるもの」を示し、この姿こそが「ときのそら」という存在であるという確固たる証明を明示してくれたのです。彼女はこれまでもこれからも「ときのそら」であり続けることを、確かに示してくれたのです。
最後に、一人のそらともとして最大限の祝福と応援を以て、この記事を終えたいと思います。―その夢が叶うまで、いや、その先の新しい夢に向かって、止まるんじゃねえぞ!

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