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【伝説】名取老女を導いたヤタガラス
守氏は「烏宮(からすのみや)」とよびました。
その由来は、こんな伝説から。
烏宮の伝説
『老女は、紀州熊野に至り、三社の御分霊、御神体を捧げ、
馬に乗って帰途につきました。
御神体の遷御は日中を避け、夜だけの旅でした。
そのとき、熊野の神鳥である大きな鳥(ヤタガラス※1)が一羽、
老女を見守り、前を飛んで先導となりながら見送ってきました。
やがて、神鳥のその烏が死んだので、老女の屋根の東部に烏塚を造り、
丁重に埋葬し、お宮を建ててその霊を祀りました。
老女は熊野三神を高舘の地を卜して祀ることとなり、
藤原基衡が夫々三所に社殿を造営しました。』
時は1123年(保安4年)のことです。
春日入の熊野社
「春日入の熊野社」(岩沼市長岡字北原山28)
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394097/picture_pc_daad4fe9c66b193b352a72d0becf9c84.jpg)
鳥羽天皇の病気祈願と、ヤタガラスの見送り伝承も残されています。
『1123年、鳥羽天皇が病気になり如何なる祈願、
薬の効果がなく病状が悪化した。
ある日、天皇の夢枕に奥州名取の里の老巫を召して祈願させよ
とのお告げがあったので、早速、勅命にて老巫を召すことになった。
しかし当時は一平民である老巫を天皇の側に近づけることができない為、
老巫の位を「名取の老女」として仮に授けた。
天皇の平癒を熊野の神に丹精込めて祈ると、天皇の病気がただちに平癒になった。
そこで天皇は恩賞を賜へんとしたが老女は固く断り辞退したが、
紀州の熊野社は奥州から遠いので、奥州の地に分霊を祀る事を
願ったところ受容され、遷座されることになった』※2
![画像8](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394361/picture_pc_45a50540eec2d9a3b495adef93912206.jpg)
鳥羽天皇は、熱心な熊野信者でした。
父・堀河天皇と並ぶ笛の名人としても知られています。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394192/picture_pc_4ec8ea89e2d0fee4abf2d16988e85cff.jpg)
阿武隈川を通って名取の里に入り、長岡の地で小休憩したそうです。
その時、多くの烏(カラス)がお供についてきたそうですが、
その烏の群れを休憩した所から帰らせたので、
「カラスガイリ」「カスゲリ」の里として春日入屋敷として残っているそうです。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394201/picture_pc_323cd561a085ff92866b4cc93096cb83.jpg)
上の図は、国立能楽堂の名取ノ老女で冊子の表紙になった
「熊野権現影向図・檀王法林寺」です。
右下に名取老女らしき人を含めた5人が、影向に現れた阿弥陀如来に驚いている姿が描かれているのですが、小さな赤い鳥居と祠みえ、雰囲気が春日入の熊野社に似ているのですね~。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394263/picture_pc_870cb787cebac7013c5b1f46770a6031.jpg)
なお、神社の創建年月日は不明。
「熊野権現影向図」に描かれた仏は「大日如来」ではなく「阿弥陀如来」で、「本地仏」が熊野本宮大社は阿弥陀如来だからです。
熊野速玉大社は薬師如来、熊野那智大社は千手観音です。
タタラ場を求めて
宮城県は、海も山もあります。
海側でとれた沼鉄鉱(海側は沼地だった)と、
山側でとれた石鉄鉱(花崗岩など)を目的として、
鉄を探していたと考えられます。(画像:沼鉄鉱の塊)
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394300/picture_pc_f7a975884b52545059ae78e747eb9d96.jpg)
春日入熊野社付近から森を辿って名取の高舘山まで移動したようです。
沼鉄鉱とは、
「沼地・冷泉などに堆積(たいせき)した多孔質の褐鉄鉱。
化学的な沈殿や、細菌の作用で生じる。」※3
津波の影響も関係していると思います。
太平洋側は地震と津波に何度も悩まされてきました。
当時は、沼地の湿地帯がひろがっていたので、
あまり人は住んでいなかったと想像されます。
そのため、古墳(円墳)や蝦夷穴が非常に多く、
複合遺跡が集中しているのは、人があまり住めなかったことを伝えており、そのような場所に住まわせた開拓の歴史があります。
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394326/picture_pc_33ebfc4a87065b87e458627ece21cf30.jpg)
高舘山の入口(那智ヶ丘団地入口)にある蝦夷穴(えぞあな)
「フルボ酸鉄」というのがあります。
森では地上に落ちた葉や枝が微生物により分解されますが、
この時、フルボ酸ができます。
フルボ酸の腐敗した土の中で「鉄」が結合され、
フルボ酸鉄となるのです。
森でフルボ酸と結合した鉄イオンは、フルボ酸鉄として
鉄イオンのまま川を下って海へ到達します。
そこで、植物プランクトンや海藻が養分を吸収で
きるように働くのがフルボ酸鉄です。※4
平地になぜ鉄がとれたのかは、おそらく津波による
海水が平地に流れ込み、長い間、土の中で結合された
フルボ酸鉄が産出されたとも考えられます。
植物の荊から鉄の金注連へ
金蛇水神社にご神水があります。
![画像7](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394341/picture_pc_3efaaeed1e4b04c1af86f4d2372f2f00.jpg)
『熊野堂今昔風土記』によれば、
名取老女が紀州より熊野の神をこの地に勧請する時、
身に着けていたと伝わる「金注連(かなじめ)」が記録されています。
![画像10](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394474/picture_pc_920b187a3d11eac47f70e1b210a178d5.jpg)
僧侶がかける輪袈裟、修験者の用いる結袈裟を製鉄にしたもので、
後世、神楽寺に用いられた老女の宮の秘宝として納められたと伝わりますが、実物がどのようなものかは確認されていません。
『風土記書上』には、金注連は989年、三条小鍛冶が熊野神社御宝物のために作ったとされます。
三条小鍛冶が刀を作ったと伝わるご神水。(金蛇水神社境内)
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/36394422/picture_pc_09da94b465c06b735ef3a958dc0352d7.jpg)
名取の隣、岩沼は城下町でした。
都からやってきて住みついた小野一族がおり、
狐伝承の刀鍛冶場とした伝承です。→竹駒神社の建立。
金蛇水神社は、「カネ」という世の中の流通を促すエネルギーがあるわけですが、鋳成り→イナリ→稲荷で、刀を作っていたのは狐だった伝承もあります。
古来の祈祷、依り代は「植物や木、石」でした。
その植物から鉄に変化したのが、金注連と思われます。
熊野は中世からの信仰です。
それ以前のアミニズムが眠っているのです。
※1 八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、
日本神話において神武東征の際、
高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、
熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス。
※2 岩沼市文化財だより)
※3 コトバンクより
※4 「森から海への贈り物”フルボ酸鉄”より
http://www.foresternet.jp/app/srch2/get_file/666
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