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名取熊野神社の飛鳥地名考
名取の熊野神社(新宮)には「飛鳥」の地名が多い。
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「アスカ」の地名由来は、紀州和歌山県の新宮市にある「阿須賀神社」が由来であるとする縁起があった。
アスカの地名は、川や海が浅くなる意味の浅い「アサ」
「カ」は、処の意味で河口が狭くなるために水の氾濫、洪水が起こりやすくその害を防ぐために阿須賀神社が祀られたという。
その祀られた神とは「飛鳥大行事」という。
飛鳥大行事とは、インドのマガタ国(摩訶陀国=釈迦当時のインド)
では権現の惣後見(補佐役)とされる。
権現の前は蘆鳥神(ろちょうかみ)という鳥の羽に乗って
熊野へ降り、飛鳥権現と名づけたという。
※『熊野山略記』を読む 桐村英一郎著より
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解説によれば、新宮の大潮を上がらせないように御戸(熊野川河口)を守っており、阿須賀の東には(鈴木・宇井・榎本)の3人の母である「阿須賀稲荷神社」が鎮座されている。その稲荷は古くからある神のようだ。
その地主神は、新宮の地に渡来し、
ムスビ、速玉神に主座をゆずり補佐役になる。
阿須賀は、洪水多発地帯で川の逆流と洪水に対する神として祀られたことから、名取の熊野神社にも沿岸浅瀬のラグーンのような地帯だったと考えられ「飛鳥」の地名にしたのかもしれない。
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年間降水量3.000㎜を超す日本有数の多雨地帯を流れる熊野川は、
度々、流域に大水害をもたらしてきました。
平成23年(2011年)台風12号(紀伊半島大水害)の紀伊半島にもたらされた大水害は、奈良・和歌山・三重の三県で死者72人、行方不明者16人を数えるなど、三県に被害が集中しました。
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船着場について、言い伝えより名取老女伝説の守家の付近だったことや、現在の名取川は今よりは南に位置していたことから、紀州の阿須賀を模して新宮となる。
他にも、奥州藤原氏が保護していた吉祥寺がある秋田県鹿角市にも
飛鳥明神が祀られており、古くは家が軒並ぶ湿地帯にあり船着場だった。
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海蝕洞窟から海民の熊野信仰へ
ところで、熊野三党名「鈴木・宇井・榎本」は、天竺のインドからルーツをもち王族は慈悲大顕王であり、三党は権現が日本飛来に先立ってこの国に派遣した臣下漢司符将軍の子と伝わる。
この熊野三党が仏教をインドからもたらしたルーツである、
ことを強調して示している。
また、藤白鈴木氏は穂積臣→(宮城県青麻神社に由来あり)
榎本氏は榎本連、宇井氏は丸子連を本姓とした。
宇井氏が称した「丸子(わに)」は、和邇、和珥とも言う。
石巻に上陸している丸子部のことがある。
紀州の和歌山県~千葉県~阿武隈川の川をつたって陸奥へ。彼らの祖は、石巻の五松山洞窟遺跡(ごしょうざん)に眠る?
この遺跡は一般的な後期~終末期古墳と違って海蝕(かいしょく)洞窟を
利用した古墳時代後期の6世紀後半から7世紀初めには墓として利用されておりその形状は、熊野堂横穴とも類似しているという。
他、福島県上条二号墳、や茨城県二ツ島横穴など。
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東北では横穴古墳のことを「えみし穴」と呼ぶことが多い。
五松山洞窟遺跡などの兼墓場には、関東と北海道アイヌと似た遺骨が発見され、古墳時代と平安時代の集落遺跡も石巻には見つかっている。
東海系の土器も、他の土地からもたらされたのではなく、
現地の石巻で生産されたものが発見している。
多くの太平洋側に熊野神社が建てられきたのは、
日本海と太平洋の陸奥・出羽の交易に欠かせなかった
海民の航海技術もあり、飛鳥という地名から見えることができる。
太陽の船ともおぼしき線刻図も発掘されている鳴瀬川もしかり。
7世紀中葉から9世紀初頭にかけて造営された古代の墓地遺跡で、
松島「矢本横穴墓群」は、五松山洞窟遺跡と同様に複合遺跡。
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赤い矢印の丸縁は「太陽の船」を意味するとも。
海道の安全祈願の祈祷の意味をもつ「釣り針」も見つかっている。
これらの大豪族であった関東(下総国)から大和の王権を示す
彼らの道には「川」の存在がとても大きい。
その一人に、熊野三党の丸子氏がいた(大伴氏と同族)ことも。
ちなみに紀州の阿須賀神社には徐福が上陸したとされ徐福宮が祀られている。
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徐福・・・東方海上の三神山にあるという不老不死の仙薬を探すために、
3000人の童男童女を引き連れ船出した人物。
各地に徐福伝説はある(男鹿半島にも上陸説あり)
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航海技術をもって渡来した集団のひとり。
彼らの知識は治水や灌漑技術をもたらしてきた。
他、大崎市鹿島台の古刹には、奈良時代の木船が発見されている。
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