【伝説】葛西氏の朝日盲巫伝承
貝田和歌神子(福島県梁川)と
旭神子(宮城県北部~一関)の口寄せの口承を
広めたのは、口シアの民俗学者ネフスキ―によるものでした。
オシラサマ研究で初の東北の巫女を取り上げたとされ、
この口承に「栗原郡(高清水)の旭神子」のことがありました。
高清水の旭神子
登米の寺池城を本拠としていた葛西氏に、朝日という姫君がいた。
朝日姫は葛西氏の家臣で志津川城主の千葉大膳太夫の妻と
なったが、葛西氏が滅亡してしまい、流浪の身となってしまった。
その後、この地に現れ、里人達は行き場のない姿を哀れに思い、
白山神社の傍らに庵を建てて住まわせた。
朝日姫は、我が身の境遇を嘆き悲しみ、明け暮れに泣き暮らした
ために盲目となり、世すぎのために巫女となり、
「おかみ様」と呼ばれてこの地で一人寂しく没したという。
将軍の名が登場するイタコは珍しいです。
ネフスキーは、一関の大和宗の人から聞き取りしたそうです。
それによれば、
「宮城県高清水に旭と伝へる法尼が現れ
出羽の羽黒山及び梁川の八幡宮に於いて修行を積まれ
秘法を会得し多くの門人を育成し今日に至った」
山形県山辺町のオナカマサマには、高清水の旭神子に御世話になったという文献が残されていました。
https://note.com/natoriuba/n/ndcc2530b2106
葛西氏のこと
関東武士団による陸奥の大移動は、葛西氏の存在が大きい。
葛西清重は、源頼朝から信頼があつく、陸奥・出羽の地を分与されています。
胆沢・祝井、牡鹿などに領地を与えられ、かつて蝦夷征伐として合戦した場所です。
特に、奥州札所三十三観音霊場が県北に集中するのも朝日の話しがあるように、葛西氏の領土に関係すると思います。
名取では、結城朝光(白河・岩瀬・名取)
和田義盛(遠田・名取・三迫)
河村秀清(名取・岩手郡)などの名が連なります。
和田義盛の子は、朝比奈義秀といい、
朝比奈氏は、七ツ森の巨人説で有名な朝比奈三郎の系譜。
和田氏は吉備国、大倭氏の祖はワタツミとの事。
穂積氏(ほづみ)という物部氏系の人がいますが、
「積」は、大綿津見の「津見」と同じです。
三浦党(相模国:現神奈川)の系譜にあり、
三浦氏は「駒王丸の墓」として高舘山の麓に残されています。
(三浦義村と伝わり琵琶の名手だったという)
文治5年7月の石碑は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼし、
陸奥、出羽を勢力下に入れた年にあたります。
葛西氏は関東の平家出身。
平家落里に多い「朝日長者伝説」は、炭鉱があった場所と言われる。
朝日の名は葛西氏
梁川八幡宮は、どさんこ馬という馬を神格化しています。
同じく大清水の葛西氏の娘が居住していた所に
現在小さな祠がありますが、白馬に乗った将軍の像でした。
これらが共通する神馬は、オシラサマ信仰に通じるものです。
本吉郡に「朝日館」があります。
名前の由来は不明ですが、北上川中下流域を考えた戦略拠点です。
築城年数は不明ながらも、城主は千葉氏の分流で本吉氏を称していた者が、
後に葛西氏の勢力下に組み込まれ、戦国時代には葛西満信の子重信が
朝日館主となって本吉氏を称したと言われます。
これらを広めた旭神子の背景に、武将たちの奥方の存在があるでしょう。
一般的に言われる「イタコ」とは異なる点であり、
「敗者側」の妻が語る口寄せがあるのです。
葛西氏と朝日(旭)神子の盲巫の話しをもたらしたのは、葛西氏の家臣として関わってきた武将に関係するようです。
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