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【神社】「海底に光るご神体」が定番の浜降り祭
閖上のお浜降り
2019年の5月に、名取熊野那智神社で「お浜降り」がありました。
「お浜降り」は、閖上の海まで高館山から神輿を担いでおろす祭りで、
21年ぶりの復興祭りでした。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886071/picture_pc_270f306df48442380252af5549e12da4.jpg)
「この祭りは、毎年6月10日「御浜下り」をして橋浦家で休む例となっていた。
御浜下りは、海の安全、大漁祈願を目的とした神事であり、
「ゆりあげ」由来の証拠にならないとする意見もありますが、
熊野那智神社に限らず、御浜下りは各地で見られるものです。」
(マンガ:閖上風土記より)
お浜降りは羽黒大権現の里帰りのような神事で、
地域住民の高齢化などで1998年以降、行われていませんでした。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886063/picture_pc_f72566263c5b7814bf7359b3605655fa.jpg)
閖上浜から引きあげたとされる十一面観音菩薩像は、
別名「高舘観音」と呼ばれています。
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886082/picture_pc_516cabeba59dd00e2446dd50ff963a21.jpg)
![画像10](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886549/picture_pc_ab6226adbc5c79a245b8e69740867e0c.jpg)
※木版画家:明才さんのデザイン
![画像11](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886627/picture_pc_04bf6da2313f9344d8ce902c9489f934.jpg)
猿田彦命が先導する海民文化
この浜降り祭は、各地で行われています。
高舘山と海の閖上をつなぐ水路と同じように、石巻(牡鹿半島)から、石巻湾への水路は、かつて上陸した熊野水軍を物語る浜降りの伝統祭になっています。
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886091/picture_pc_c3ee97623453cac865a3675a377f700f.jpg)
加美町の熊野神社に伝わる浜降りでは、海水を神輿ごと清めるため、
20年毎の春に、60キロも離れた鳴瀬町の海岸まで
ご神体を潮水で清める祭とされます。
金華山の弁財天も、亀島に浜降りし、
海水で神輿を清めたいたそうです。
これらの祭は、旧事の神事で古法と言われます。
狐崎(石巻)と言われる地域では、
お稲荷さんの浜降りがあり、猿田彦命が先導します。
![画像1](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886058/picture_pc_b22e1ffb790b5d3945f6d846aafcd388.jpg)
多くは猿田彦命を先導する祭ですが、
天から降りてきたニニギノミコトを道案内した神話から、
先導するのは、猿田彦命が定番となっています。
天孫降臨の神話を祭りにのせたものですが、
海の縄文文化を示しているとの説もあり、
鼻節神社があるように、塩釜神社のご神事の「藻狩り」
では、猿田彦命を祭る鼻節神社の付近の海水から
藻を狩ると言います。
猿田彦命に「塩」が深く関わっている由縁です。
また、大嘗祭の儀式でも、アユ(鮎)を献上するのは、猿田彦命を祀る川には「アユがよくとれる」ことが多く、川漁をしていた国栖氏が献上している伝統です。
臼の伝説
ところで、高舘山の熊野神社と同じ由縁が加美町宮崎地区にある熊野神社にありました。
![](https://assets.st-note.com/img/1695014475052-xaYSn9hw0T.jpg)
源頼朝の平泉への侵攻が伝わっているので、高舘山の熊野神社とよく似ています。
![](https://assets.st-note.com/img/1695014412779-59IqeqagyE.jpg)
神社庁の由縁によれば、
藤原秀衡を滅ぼした後、近畿の農民たちを
東北に移住させ、開拓させました。
宮崎の地には、紀州の移民を住まわせ開墾させています。
紀州の民が来たことで、
熊野信仰が広まったと伝わり、1320年に社司猪股外記藤原重密が
紀州熊野神社のご分霊を宮崎の地に遷し祀ったことに始まります。
この時に獅子舞が紀州熊野から伝承されたと考えられ、
獅子舞は、はじめに法螺貝が吹き鳴らされます。
![画像6](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886295/picture_pc_cd264cfec34b475c66dfb65c4eb2d7de.jpg)
![](https://assets.st-note.com/img/1695014446939-wSxJEmpHgr.jpg)
『昔、浜市の漁師である八十郎が漁にでたところ、
海に輝いている物を見つけました。
それは黄金のご神体だったので、
八十郎は漁をやめて家に持ち帰りました。
八十郎の家には祭壇がなかったので「臼」をふせて
その上にご神体を置いて毎日拝んでいました。
そこへ紀州の熊野神社の藤原重密という人が現れ、
紀州からご神体を運ぶ途中、船が難破して
ご神体が流されてしまった。
そのご神体を八十郎が所持していることを夢で知り、
訪れたというのです。
その後、二人は相談し鳴瀬川の上流でご神体を祀る
良い場所を見つけました。
その場所が、現在の加美町(旧宮崎町)にある熊野神社で、
当時のご神体を置いたそされる臼は、八十郎の子孫である
鹿野家に代々、受け継がれています。』※1
![](https://assets.st-note.com/img/1695014497128-hjluNBCnuy.jpg)
臼の神とは
大嘗祭の卯日(うのひ)に稲を膳屋におき、
後に采女により謡われる歌があります。
![画像8](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886527/picture_pc_2b0d495f013c5582bab987bc146b2706.jpg)
悠紀、主基各地方の名所を歌詞の中に詠みこんで天皇の治世を
祝う歌だそうです。
悠紀殿中央に杵と臼が置かれ、女官8人を配置されることが
墨書きされています。※2
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886533/picture_pc_566427e710c9cd4731204d1410abfc4d.jpg)
福島県の伊達市に水雲神社があります。
ご神体が「焼き臼」で、その昔、摺上川から流れ着いた大臼を
ご神託によって祀ったところからはじまるそうです。
さらにこの大臼には、「松川の合戦」の際、戦にやぶれた政宗が
身を隠して難を逃れたという口伝が残っています。
臼は蛇で、女の象徴とされ、
杵は男の象徴。
陰陽の働きを示した物とされ、男女の融合により作物も命も繁栄することを
祝う儀式です。
また、金は臼の神でもあり、
臼を挽くと金がたくさん出てくる伝承が、日本各地にあります。
金の意味がある臼として神格化されたこともあり、
加美町の熊野神社が、源頼朝の平泉征伐との関連を示していることから、
熊野修験による金との関わりがみえます。
兵庫県では、臼と蛇神は、妙見様です。
臼に巻く蛇の伝承がある宇賀神。
日光院の伝承では、お使いの蛇が臼の中に入ってどぐろを巻いていたと言われたそうで、その場所に、名草神社が祀られています。
![画像7](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/57886451/picture_pc_2a70ae9876d6ca507e7a13caebee21fa.jpg)
熊野水軍が上陸した鳴瀬川付近(松島~石巻)より
故郷をはせて、名草の神を祀ることの意味もあったかもしれません。
※1広報 奥松島縄文歴史館 縄文村だより(NO181より)
※2 令和の御大礼特別展(栃木県立博物館)より
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