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【伝説】前田庄の熊野信仰と天神伝説

名取老女の伝説にはいくつかあります。

・名取熊野堂縁起(梛の葉に書かれた和歌)
・烏宮の伝説(ヤタガラスと守家)
・前田庄(足が不自由な熊野信者)
・名取の居腰次郎吉迚(いこしじろうきちとて)老尉(ろうじょう)ともいう

前田の場所は、現在の太白区中田の地区です。

前田の踏切を越えたところに塚があり、
九州から配流された中津川義氏の伝説があります。

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仙台市太白区中田、名取一帯は(名取老女の下余田なども含め)
「前田の庄」がいた所と言われます。

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天満宮の由来(看板より概要)

『学問の神、菅原道真は若くして朝廷を補佐し、
国を治めるが、落とし入れる者の仕業により、
901年九州筑大宰府に左遷され配流。
荒れ果てた社で道真公は、無念の生涯を閉じる。

後、神霊となって自分を落とし入れた者を糾明し、
無実の罪を晴らしたことに天皇は驚き、
道真公に尊号「天満大自在天神」を奉った。

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その大宰府より京都右京馬場北野に社を設け、
全国各地に学問の神として分社を建立。

いにしえ奥陽名取郡上余田袋内に勧請し、
事は九州豊前国に中津河義氏という武門にすぐれた人がおり、
自分の遺恨により義氏が落とし入れられ、その罪によって
陸奥の国名取に流罪となった。

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義氏の妻が夫の無実を知り、安否を気遣い
後を追って流刑の地を探しに赴いた途中、
風雨にさらされ、又、山賊にいじめられ、苦難の行の果てに
ある日、前田の里で夫にめぐり会うことができた。

帰国する時、妻が大宰府の夫に達えるように願をかけ、
道真公のお姿を肌身はなさず守り袋に入れて来たことにより、
叶えられたものである事に、当地を去る時にそれを図写し、
由緒と共に袋内の社に奉って行ったと伝わる。

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いく百年か永年を経て、社は朽ち果て村人が何度か修復。
現存の社は、昭和初期の西北、角の地に田園の田から掘り上げた土で
「築山」として祀る。
増田神社に、明治時代の神仏合祀により神物は移された。
(天神講中)より』


天神塚古墳」とよばれ、
土師器や壷が発掘されているそうです。

中津国(大分県)にいた中津河義氏
この地に配流され、夫を探してきた妻は
奇跡的に夫に会えるといった話です。

その力は、菅原道真の姿を写したお守りによって
叶えられた為、御礼に社を祀ったという由来です。

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※道真天拝山祈祷の図(小林永濯・画、明治時代)

巳待塔や庚申塔、出羽三山、山神碑などがある。

「中津河義氏」という人は、浄瑠璃に登場していますが
詳しいところまでわかりません。

熊野八庄司とは

紀伊熊野の八つの庄の庄司。荘園領主の命によって雑務を掌ったが、多くは土豪として部族化した。代々「鈴木庄司」を称した藤白鈴木氏、「湯河庄司」を称した湯川氏、「野長瀬庄司」を称した野長瀬氏らが記録に見える。

8、9世紀頃…自墾地系荘園(自分で開拓:私有地)
だったのが、10世紀頃の藤原家が台等するあたりで、
「寄進地系荘園」となり、土地は国のものとなる。

東北地方に余っている土地は、皇室や摂関家・大寺社などの
有力者の土地だったらしい。
その土地を誰かに名義だけあずける寄進に変わります。

名取老女がわらじを編んでいた場所として
「下余田(しもよでん)」があります。

古来、僻地と言われた東北には「長者」がおり、
蝦夷征伐の時に派遣された吉美侯部(きみこべ)の部民が
長になっていたことがありました。

国有地になると、国家の耕作農奴として地主の農地でなくなります。

しかし、東北の山は、誰の土地でもなかった、いわば、穴場であり、
タタラ場の格好の場となります。
(土地の所有があきらかではなかった)

そこに目をつけたのが、東北各地に伝わる
金売吉次(砂金取りの豪商)と考えられます。

公家の寺社が強くなり、
領土をおさえることができるようになります。

藤原家の都の勢力が入り、熊野別当(藤原実方の母説)となり、
天皇家の荘園におさめられ、「長」から「庄司」と変えて
生き延びたのかもしれません。

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