コピーライターから食堂へ 「アルプスごはん」ができるまで
週一の「家呑み」で美味しいものを研究
今井 金子さんが料理の世界に入ったきっかけは何でしたか。
金子 大学時代の4年間、和食のお店でアルバイトをしていたんです。2年目に親方から「まかない」を作れと言われました。親方も、店長も、社員の人も食べるので、限られた食材、限られた時間で、頭をフル回転させながら作ったんですが、その経験がものすごく今の仕事にも役立っています。そのバイト先では調理師免許も取らせてもらいました。
自分が通った大学の学科はマスコミ系だったので、広告に興味を持ち、その中でもコピーライターの秋山晶さんへの憧れもあって、当時はコピーライターを目指そうと思っていました。大学4年の時に、コピーライター養成講座をダブルスクールで通ったんです。でも、就職は決まらず、就職浪人になりました。そこでその養成講座の会社にアルバイトさせてもらいながらコピーライターを目指しました。今思えば、そのアルバイト先で、妻にも出会ったし、その後フードユニット「つむぎや」を一緒に組むことになるマツーラユタカ君にも出会うことができたんです。
半年後に無事コピーライターの仕事が決まりました。そうしたら1か月後に、マツーラ君から自分もコピーライターの仕事が決まったと連絡が来て、話を聞いたら自分と同じ会社だったんです。その後、マツーラ君と何年か一緒の会社で働くことになりました。
村上 「つむぎや」というのは金子さんが組んでいるフードユニットですね。金子さんも、マツーラさんもコピーライターをされていたということで、全然料理じゃないですね。そこからどう料理に結びついていったんでしょうか。
金子 マツーラ君はコピーライター養成講座の同期だったのですが、講座が土曜日だったので、だいたいその後にみんなで呑みに行っていました。居酒屋で呑んでいたのですが、だんだん自分だったらこう料理するのにな、こうしたらもっと美味しくなるんじゃないかな、と思うようになりました。マツーラ君もそう思っていたみたいで、あるときからマツーラくんのお家で、今で言う「家呑み」をやることになりました。それを3年ぐらい続けていたんです。ある日、そろそろユニット名をつけてみたら?とまわりから言われたことをきっかけに僕たちは「つむぎや」という名前を付けました。「つむぎや」というのは、食を通して人と人を繋げたり、楽しいとか美味しい時間を紡いでいこうという意味です。自分たちの屋号をつけてすぐ、料理雑誌「オレンジページ」の編集者の人とお会いする機会があり、急遽その雑誌での連載が決まったんです。それが大きな変化になりましたね。連載はそれから5年続き、別の料理雑誌や料理本のお仕事、ケータリングなどをさせてもらうきっかけにもなりました。
村上 その頃にはコピーライターではなくなっていたんですか。
金子 コピーライターは3年ぐらいで挫折しました。やっぱり「食」がいいなと思い、その中でもパンにチャレンジしてみたいなと思ったんです。マツーラ君にも相談して、「まあ金子は食の方がいいかもね」と言われ、マツーラ君が当時働いていた会社の1階にベーカリーがあったので、お店の店長さんに聞いてくれたんです。そうしたら、ちょうど男手が必要だということで、すぐ採用してもらえたんです。コピーライターからすぐ、間髪入れずにパンの道に進むことができました。マツーラ君には本当に感謝しています(笑)。
村上 先に金子さんがパン職人になって、でそのあとでマツーラさんも含めて「つむぎや」というユニットを組んだんですか。
金子 マツーラ君はライターの仕事をしつつ、「つむぎや」の仕事もしていました。僕もパンの仕事と「つむぎや」の仕事、両方していましたね。
村上 なるほど。
金子 そのころは、パンもつむぎやの仕事もとにかく夢中で、大変だったけど楽しくって。ほとんど寝てなかったですね(笑)
人に、食材に「寄り添う」
今井 パンとつむぎやの仕事から、「アルプスごはん」にはどうつながっていったんでしょうか。
金子 その後、2008年でパンの仕事を辞めて、「つむぎや」の仕事一本でやっていくことにしたんです。料理研究家として、料理本は「お昼が一番”楽しみ”になるお弁当」(すばる舎)、「ぱんぱかパン図鑑」(扶桑社)、「和食つまみ100」(主婦と生活社)など共著も含めて16冊ほど本づくりに携わることができました。他にも料理雑誌にレシピ提案したり、ケータリングやイベントなど「食」にまつわる仕事をやってきました。今年で「つむぎや」は17年が経ちましたね。現在、自分は松本で「アルプスごはん」を始め、マツーラ君は2年前に山形県鶴岡市で「manoma」という素敵なお店をパートナーのミスミさんと始めたんです。それぞれの環境が変わり、なかなか一緒に仕事することが難しくなってきてるんですけど、今はお互いの「場」を盛り上げようとしています。
僕は2017年に「アルプスごはん」をオープンしたんですけど、2015年に当時吉祥寺にあった「食堂ヒトト」のオーナーである奥津さん(現在、長崎県雲仙市千々石にあるオーガニック直売所「タネト」を営んでいます)と松本のブックカフェ「栞日」店主の菊地さんが開催してくれた「松本と吉祥寺」展というイベントがありました。僕も料理で関わらせて頂いたんです。「東京・吉祥寺に松本の風を吹かせて欲しい」ということで、その時に初めて松本で農家さんを探しました。そこで繋がった人たちが今の「アルプスごはん」でも使っている、SASAKI SEEDSさん、ふぁーむしかないさん、バジルクラブの鈴木達也さんだったんです。そして2017年にお店ができることになった時、「松本と吉祥寺」展で出していたプレートの名前が「アルプスごはん」という名前だったので、お店の名前は「Alps gohan」に。使う食材は、その時出会った農家さんのお野菜が主役になるような一皿を作りたいと思ってオープンしました。
村上 アルバイトのお話から伺った時は、どうやってアルプスごはんになるのかなと思ったんですが、最後の話まで伺うと、コピーライターの仕事が様々な世界観を組み立ててフレーズにしていく仕事だとすると、料理もそこで出会った人たちをつなぎ合わせて、つむいで、お店にしていくという点では似ている印象も受けました。金子さんとしてはどうですか。
金子 パンの仕事もそうですし、コピーライターの仕事も、何一つ無駄なことはなかったと思っています。例えば朝ごはんに水餃子をやろうと思った時、ただの「水餃子」ではなく「おはよう水餃子」という名前で出しているんですけど、「おはよう」がつくだけで、なんとなくキャッチーな感じになると思います。そういうのはコピーライターの経験をしなかったら出てこなかった発想かなと思います。
村上 コピーライティングの仕事と、料理屋さん。ちょっと強引かもしれないけど、どこが似てると思いますか。
金子 広告の仕事はチームでクライアントさんに寄り添うことが大きな仕事だと思うんです。お店も農家さんにどこまで寄り添うか、野菜に寄り添えるか。この「寄り添う」っていうところが共通してるかなと今思いました。
村上 「寄り添う」ですか。なるほど。たしかに金子さんのごはんを食べさせていただき、このシリーズでも何回か同じような感想をお伝えしてると思うんですけど、寄り添うというところが、今お話を伺ってストンと落ちてきました。食べてる時にも、そういう感想をすごく持った印象があります。
金子 ありがとうございます(笑)
今井 ぼくらはネイティブという名前でこの番組をやっています。お店の場合、野菜を作る人がいて、それを料理する人がいて、その先にはお店で食を楽しむ人がいる。たぶんこのつながりだと思うんですけど、ずっと長くこのつながりを続けていくには、何が大切だと思いますか。
金子 僕にとってのネイティブは、例えば松本・安曇野に行くと道祖神というご縁の神様があるし、神社には大きな木があったり、義理のお父さんがずっと作り続けてくれてる松本一本ねぎとか、ずっとそこにあるものに対して感謝を持って、自分のやるべきことをやることが自分にとってのネイティブかなと思います。それをいろんな人に伝えたいし、自分の子供達にも伝えることができたらいいなって思っています。
今井 松本に行けば、いつもアルプスごはんが食べられる、そんなお店であったら嬉しいなと思いました。ありがとうございました。
(文・ネイティブ編集長今井尚)
次回のおしらせ
次回から2回にわたり、これまでお話を伺ってきた6人の方々のお話を振り返りながら、極地建築家村上祐資とネイティブ編集長今井尚が対談します。お楽しみに。
The best is yet to be!
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