たぬかなの契約解除は「キャンセルカルチャー」なのか

格闘ゲームのプロゲーマー「たぬかな」の『2月15日配信中の発言と姿勢』により所属チームから契約解除されスポンサーのレッドブルアスリートのHPからも情報が削除された事件。

本件について不毛な議論と忘れられている認識があるので書きます。

※有料設定にしていますが全文が見れます。

たぬかなの契約解除はキャンセルカルチャーなのか

「キャンセルカルチャー」の定義・意味は不確定であり、もはや【何でもかんでも購買停止・出演停止・開催中止・契約解除・解雇・リコール等を求める動きの総称】みたいな用語法になっています。

元はアメリカの黒人Twitter界隈で広まった言葉で一種のスラングとして特殊な意味合いがありましたが、広く拡散された結果、アメリカにおいても言及される場面が際限なくなりました。

ただ、日本においてはその流入時期の象徴的な事件として「銅像引き倒し」がクローズアップされていたため、「価値判断基準の遡及適用」による「(歴史化した)過去の言動、業績に対するものだ」という要素があるものとして言及されてきました。

そのため、「たぬかなの契約解除はキャンセルカルチャーなのか」という議論が出てきました。

結論としては「どっちでもいい」ということになります。

もはや個別事象を判定するための言語としての意味が消失する程度に意味内容が散逸したので。

個別事案についてこれは「キャンセルカルチャー(の一環)なのか」という中間項を介在させずとも、「この程度の言動での契約解除は不当では無いか」「何でもかんでも問題視するのは良くないよね、その理由は…」と直接言えば足りるから。

元が「カルチャー」という巨視的な視点からの分析・把握用語ですからね。

たぬかなよりも、むしろその後に契約解除(理由未記載)されたKbaton=コバトン氏の方がよりキャンセル性が高い(2017年の発言が掘り返された)にもかかわらず、そちらは比較的問題視されていないのも不思議ですね。

プロゲーマーKbaton、選手契約解除 理由は「たぬかなへの言及と過去の差別的発言」2022.02.18 15:49 恩田雄多

「人権ない」は許されない差別発言なのか?

一連の発言を確認しましょう。

当該配信の動画を見ると、宅配サービスで自宅に荷物を届けに来た配達人が、連絡先を交換して欲しい旨を申し出たために恐怖心を抱いたというエピソードに端を発しており、「170ないと正直、人権ないんで。170cmない方は『俺って人権ないんだ』って思いながら、生きていって下さい」「ほんまちっちゃい男に人権あるわけないだろお前、調子のんな」「骨延長の手術を検討してください」といった内容がクローズアップされています。同日には他に「Aカップも人権が無い、それと一緒」という発言もしているのが見つかります。

ゲーマーが配信中の雑談で「人権無い」と言ったからと言って、文字通りの意味と捉える人は居ません何らかのカジュアルな意味として使っているものだと通常は考えます。

他方、「人権無い」は格闘ゲーマー界隈でのスラングである、という話があります(別のゲームでもある)。その意味は、攻略に必須レベルの性能を有していること、それを持っている者といない者とでは圧倒的な格差が生まれる性能、といったものです。

ただ、配達員という特定の人物を念頭に言及した挙句、「170cmない方は『俺って人権ないんだ』って思いながら、生きていって下さい」と、内容を一般化し、さらに「Aカップが人権無いのも同じ」とも言っていることからは、単に自分の恋愛対象について論じただけという事にはならず、スラングとして使っていたからといって非難を免れるものではない。

一般通常人による客観的判断によれば、一連の発言は「ルッキズム」という外見への偏見にもとづく発言と言えるでしょう。差別的発言と言い切ってしまってよいのかは分かりませんが。

本件の問題は、「それがここまでの非難を浴びるようなものなのか?」という次元の議論のはず。

なお、契約解除理由は『2月15日配信中の発言と姿勢』なので、過去の発言は対象にされていない書き方です。

暴力・暴言・露悪的表現を忌避する大きな流れ

本件について「アウトサイダーの居場所が無くなる」論により、その懸念を伝える者が居ます。確かに現代社会にはその問題があると言えるでしょう。

しかし、たぬかなに関してはそんな話ではないだろう。

暴言をコンテンツの一部とする事と、スポンサーの投資を受け、広く消費者の支持を得る事との相性が悪いというだけ。契約解除理由の妥当性は契約内容によるので外部者が判断できるものではない。

仮にボクサーが人種差別の煽り文句を言ったらアウトでしょ。

ラッパーのdisが許されているのも楽曲やバトルのフィールドにおいてのみで、そこから離れたら法的には一般人と同じ扱いを受けます。

「健全化の流れ」が他面においては悪い事なのかもしれない、という考慮は大切だけれども、なぜそういう流れになってきたのかはお金の面だけでは測れないものがあるんじゃないでしょうか?

【そういうコンテンツは不快だし何も良いものは生まれない】という経験則なり社会知が積まれてるのではないか?

フットボール=サッカーの世界の末端で類似の現象を体験してきたことからそう思います。

フットボール発祥の地であるイングランドのプレミアリーグのジャッジと他の国のリーグジャッジの基準を見れば明らかなように、前者はファウルとなるレベル、カードが出る閾値が高い。容易にはカードが出ない。

フットボールという競技は、ファイトの要素が強かった。

マラドーナがバルセロナにいた頃(80年代初頭)の映像などでも当時の【暴力性】が分かるハズ。

サッカーはそういう要素を競技の発展を阻害するとして粛滅していった。

競技規則の文言はそんなに変化していないが、その運用面において、選手の身体の安全を脅かす行為については、徐々に適用が厳格化・厳罰化していった歴史があります。

今の40代くらいまでは、「エースキラー」と言って見えないところでチクチクダメージを与えるような存在が重宝されることもあったんじゃないでしょうか?

そういう選手は「戦える選手」としてファイトしまくって、ある種重宝されていたけど、時代が移り変わって単にカードのリスクのある者、競技の魅力を減じる者として扱われ、消えていったフットボーラーは、それなりに居るでしょう。

フィールドから離れた場面においても、たとえば観客席から叫ばれる暴言の類は徐々に排除されてきましたし、相手チーム・相手サポーターとの諍いというのは価値を減じるものとして扱わるようになりました。

フーリガンのようなものも「サッカーあるある」のような扱いだったのが規制され、自制されていったでしょう。

配信者の暴言も、そういうことだと思ってます。

価値が無くなったんだよ。

企業イメージを背負う者としての振る舞いとしてどうあるべきか、ということは、従前からプロゲーマーは意識していましたよ。

単に「暴言を咎めること」が、「キャンセルカルチャー」として扱われることに違和感を覚えるのは、こういう所から。ここでは、前項で「どうでもいい」と言ったような言葉の意味からの該当性判断ではなく、社会現象の扱い方として捉えた判断です。

「米国発のキャンセルカルチャーの因果の流れ」にあるというよりも、それとは別の(より大きな)時代の流れに過ぎないんじゃないの?ということ。

なぜか「キャンセル」されない特権階級の存在とそれを無視する界隈

蛇足として、なぜか「キャンセル」されない特権階級の存在を指摘しておきます。

「こういう連中は解雇しろ」という主張をしたいのではない。少なくとも彼らに権威性を与えてはならないという忠告はしたいが。

言いたいのは、これらの発言よりも「軽い」言動でも「キャンセル」された者が居る一方で、「そうではない者」には一定の法則が見て取れるということ。

ラムザイヤー教授に関しては暴言ですらなく、学術論文の内容が差別・歴史修正主義だから論文を撤回しろ、処分しろ、という要求が大学教授らによって為されていました。(当然、差別でも何でもない)

その政治的な立場の非対称性こそがキャンセルカルチャーの根源であり、ポリコレ適合性判断が先にあり、「キャンセル」はそれによる結果に過ぎないでしょう。だからこそ「単なる暴言」がこの範疇から外れる。

どうも、こうした政治的な文脈をまるまる無視して種々の問題を論じたい界隈があるのですが、片手落ちもいい所だと思います。

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