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高校野球・周知徹底事項「喜びを誇示する派手な「ガッツポーズ」などは、相手チームヘの不敬・侮辱につながりかねないので慎む」と東北高校のペッパーミルパフォーマンスについて

春の選抜高校野球大会全国大会の東北高校vs山梨学院高校において、東北高校がペッパーミルパフォーマンスを行ったところ、審判から注意を受けたという事案がありました。

そして、試合後に東北高校の監督が「何でこんなことで、子どもたちが楽しんでいる野球を大人たちが止めるのかな、と感じました。もう少し子どもたちが、自由に野球を楽しむことを考えてほしい。日本中が盛り上がっているのに、なんでダメなのか理由が聞きたい」とコメントしたことで物議を醸しています。

本項はそれについての私見を述べるものです。

かなり根深い問題が積層されているのではないでしょうか?

「エラーの場面でのパフォーマンスだから」?


エラーの場面でのパフォーマンスだからダメだ

こういう見解がSNSでは相当数見受けられました。

しかし、同じ高校野球でも、ヒット時や盗塁時に守備側選手が進塁阻止のための送球をしたが、ボールが逸れてランナーが生還、というとき、得点を喜びますよね?

なので、整合性が無い意見です。

殊更に送球・捕球ミスを揶揄する意図がうかがえる場合を除き、「そういう行為を誘発するような状況を作り出した味方選手への賛辞」でしかない。

今回のペッパーミルパフォーマンスだって、打者の一定の働きを讃える趣旨でしょう。動画を見ましたが、打球を捉えて打ち返しています。守備選手が素晴らしくて正面で構えたが故のミスでした。

そして、今回は「エラーの場面だから」という説明は一切ありません。

東北が侍ジャパンで注目される“ペッパーミルポーズ”を取り入れ、審判から注意を受けたことについて、日本高野連は「高校野球としては、不要なパフォーマンスやジェスチャーは従来、慎むようお願いしてきました。試合を楽しみたいという選手の気持ちは理解できますが、プレーで楽しんでほしいというのが当連盟の考え方です」とコメントした。
 東北は初回、先頭の金子和志が遊失で出塁した際、一塁ベース上でベンチに向かってペッパーミルポーズをした。これが一塁塁審から注意を受け、ベンチにも「パフォーマンスはダメです」という趣旨の注意があったという。

高校野球・周知徹底事項

ここで、上掲記事にある審判の説明は【高校野球・周知徹底事項】に基づいていると理解できる所があります。

http://www.kyoto-koyaren.jp/koyaren/pdf/95kai/syuchi.pdf

そこでは「マナーについて」という項目の中で、『喜びを誇示する派手な「ガッツポーズ」などは、相手チームヘの不敬・侮辱につながりかねないので慎む』という記述が見つかります。

これを見た瞬間に「ルールが明文化されているのだから従うのが筋だ」と即断するのは、一つの振る舞い方・生き方でしょう。

が、「このルールは今回の場面で適用されるべき趣旨なのか?」と考える余地がある書きぶりであり、そこをきちんと考えるのがルールを語る側の人間の役割でしょう。

なお、平成19年時点ではこの明文化は為されていませんでした。もちろんそれ以前からも慎むべき扱いが為されていましたが、平成25年辺りに明文化されたようです。

「喜びを誇示する派手な「ガッツポーズ」など」

この記述は「ガッツポーズそのものを禁止してはいない」ものとして扱われています。実際にそういう記事も見つかりますし、高校野球でガッツポーズを見ることは多いですから。

文言上も、「…誇示する派手なガッツポーズ」となっていますから、ガッツポーズの中でも一定の状況の下で問題視されるに過ぎません。
※「慎む」とあるように他の規定と比べても任意のものであり、程度問題、ということが読み取れる。

また、「など」とあることから、捕捉対象行為は「ガッツポーズ」に留まりません。

要するに、その行為の外形ではなく、その実質が問題になるわけです。
その趣旨は、その後に書いてあります。

「相手チームヘの不敬・侮辱につながりかねない」行為とは?

結局のところ、このマナーの趣旨は、「相手チームヘの不敬・侮辱につながりかねない」行為を抑制させるためのものだということです。

「喜びを誇示する派手なガッツポーズ」は、その例示。

では、ペッパーミルパフォーマンスはどうでしょうか?

ペッパーミルパフォーマンスは、WBC日本代表の選手達が行っていることで話題の行為です。

既に「日本人の多くがWBCの試合を観ている」と言っても許されるような状況になっています。視聴率は連日40%を超えています。

したがって、ペッパーミルパフォーマンスの意味合いは多くの人の間で共有されていることでしょう。

特に野球人だったなら、もはや「共通理解となっている」と言ってよいのではないでしょうか?

その起源が説明されるかは放送時の説明や視聴者が検索するかによりますが、【味方選手の良いプレーを讃える】ものであって、決して「相手選手を揶揄・侮辱する」ものではないというのは明らかでしょう。

したがって、もはや野球人の間では、いわば「市民権を得ている」ペッパーミルパフォーマンスは、「相手チームヘの不敬・侮辱につながりかねない」行為ではないということが明らかなのですから、殊更に禁止すべき理由はありません。

そうではない、そのチームが独自に考案したパフォーマンスだとすると、主審から見たら「あれは何のパフォーマンスなのか?」という疑念が働きます。それは相手チームにとっても同様かもしれない。すると、「不敬・侮辱につながりかねない」行為かどうかが分からないので、「そういう行為かもしれない」として止めさせるという方向に傾くのは一つの運用の在り方だと思います。

現下のペッパーミルパフォーマンスは、そういう疑念が起こらないということです。

これと非常に似通った状況として、ブルーリボンバッヂの着用を認めない裁判官の法定警察権の行使があるなと思いましたが、ここでは触れません。以下で事件の構造とその不当性・違法性を書いています。

「相手に難癖を付けられる危険」が低くなった令和の時代

別の方向から。

「相手チームヘの不敬・侮辱につながりかねないので慎む」というのがマナーとしてあるのって、「相手」が「ヤバい人」である前提ですよね?

昔の野球部とかサッカー部は…不良の溜まり場みたいになってたところ、多いでしょ?そうでなくたって、荒くれ者連中の発散の場、管理の場として機能していた時代と言い表すことは可能じゃないですか。

常に争う理由を探してるような人間相手だと、誤解されるような行為は絶対やめようぜ、となる。少年院で「目を合わせるな」と言われるのもそういうことです。

でも、今は令和の世の中ですよ?スポーツから暴力性が薄れて行って、どの学校のどの部活も基本的に振る舞いは紳士的な人間の出来た子ばかりです。

「エラーの場面だから相手への揶揄・侮辱だ」と勘違いするようなヤバい人間が多い集団内では妥当性の高いルールが、そうではない人間が多くなった現代ではかなりズレたものになっている、という話なんじゃないでしょうか?

「喜びを表現すること」は悪なのか?標準的な理解のあり方

そもそも、「喜びを表現すること」は悪いことなんでしょうか?

日本のスポーツ教育(競技力向上の方法論ではなく)は武道の影響を強く受けているというか、それを移植して徐々に変わっていった、というのが実情だと思います。剣道や柔道の発想があるんだろうと思います。

自分の成功だが相手を思いやるべき場面というのは【相手に「ダメージ」が入ったとき】です。剣道なら一本を取るということは、相手を殺したり動けなくする行為である、と想定して(真剣での戦いがベース)るからこそ、喜ばないんでしょ。

スポーツは、基本的にそういう要素は無い。

ただ、たとえばサッカーのGKのパントキックで風か何かで予想以上に飛距離が出てバウンドも伸びて相手ゴールに「入っちゃった」ときは、相手GKの心情がリアルに理解できるから、当の得点者たるGKは喜ぶことが少ない。狙っていたなら別ですが。

ピッチャー返しで悶絶してるところを喜んでるならともかく、トンネルのエラーはそれを誘発したバッティング、打球がある上の話であって、エラーをした者が肉体的なダメージを負うわけではない。

その結果の裏に「後で監督・コーチから叱責されるなぁ可哀想」とか、そういう事が容易に想起できる時代なら別でしょうけれども、今の世の中はそうじゃないでしょう。

今回のはサッカーで言えばシュートなり枠を外れていたはずのクロスが相手DFのオウンゴールになって喜ぶ感じに近い。相手の不幸を喜ぶ要素なんて無い。「自らのアクションが生んだ結果」であり、それを称賛することで相手を貶める意味にはならない。

もっとも、サッカーは最も喜びを表現するスポーツだと思うけど、それでも古巣相手にゴールしたときに古巣のサポーター前に向かって両手広げて膝スライディングずさ~をやったアデバヨールってのが居てですね…反スポーツ的行為でイエローカードが出ましたよ。

あとは点差がついて勝ってるときにヒールリフトとかはやはり非難される可能性があります。ルール上は問題ありません。

ブラジルとスペインの文化の違いと言えばそれまでですが。

野球でも「メジャーに行った選手は喜びを派手に示さない」とか書かれてたりしますが、「何が地雷なのか分からないから」慎重になって郷に入っては郷に従えをやろうとするのは理解できるし、他方で「ビッグボス」=新庄剛志はめっちゃ喜んでました。

このように、具体的な状況を見て実質判断することを放棄してはいけないでしょう。

「相手を思いやれ」という呪いの教育と朝日毎日新聞

「ガッツポーズ」で検索すると「相手を思いやれ」といった論調で書かれた読み物が見つかりますが、もはや「呪い」でしょう。

たとえば奪三振をした投手がガッツポーズ

それに対して「打者を思いやれ」?

は?投手の想い・結果はどうなるの?
いや、打者も情けをかけられてどう思うの?

成功を称賛することは許されず、目線を低く設定した思想。

相手の成功を讃えずに居たら、本当の意味で敗者になるぞ。
「グッドルーザー」という言葉があるじゃないか。

常に「何かを避ける」ような発想逃げの姿勢の教育が為されているから(もちろんそれは「ヤバい」輩が多くて因縁を付けられるのを避けるためという側面があるだろうが)、後ろ向きの評価・理解・行動が強要されるのでは?

そうした発想が如実に表れたのが2019年のU18日本代表の韓国遠征時の高野連の対応方針ではないでしょうか?

「日本代表選手の安全」ではなく「韓国への配慮」で日の丸を取り除いた高野連

高野連が野球U18日本代表は日の丸なしシャツで韓国へ行くということに決めました。韓国へ行った後に日の丸のものに戻しましたが、竹中事務局長は「韓国の国民感情に配慮して、日本を前面に出すのはやめようと思っている。」などと発言していました。

狂っている。

高野連は「日本代表選手の安全」ではなく「韓国への配慮」というとんでもない理由で移動時のシャツから日の丸を取り除いたのです。

しかも、出発前のロビーの日本代表を写した写真では、鞄には大きく「JAPAN」の赤文字が入っていることが確認できました。

この状況からは、高野連は日本人であることが分かると危険だから移動時に日の丸の無いシャツの着用を決めたのではなく、日の丸そのものがダメだという認識としか言えないことになっていました。

高野連は朝日新聞や毎日新聞の社長がかならず役職に就くことになっているという組織です。

朝日新聞や毎日新聞が何をやらかしてきたか。

日本人を常に他国の「下」に置こうとしてその意識を植え付けようとしてきた張本人でしょう。

そんな所が「相手を思いやれ」と言い続けて来た。その意味・意図は、いったいどこにあるのか?その「教育」とやらの「成果」として、いったい日本国がどういう状況に陥ったのか。

………

ここまで書くと「関連性が無いだろ」という声が聴こえてくるかもしれないが、完全に無関係の話と言えるだろうか?

なぜ、時代に逆行するかのように平成25年に当該マナーが明文化されたのか。その辺りは高野連上層部のモノの発想の仕方がベースにあるからだろう、と考えることに、意味がないとは思えない。

※追記:高野連が「不要なパフォーマンス」「プレーに直接関係ないことや自然に出るガッツポーズを逸脱した行為などが対象」と説明

新たな事情が判明したので上掲記事で改めて言及しました。

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