日本学術会議が政治問題に声明を出すことについての大勲位・田中耕太郎最高裁長官の指摘

日本学術会議が政治的な問題に関して声明を発している問題について。

福島要一氏の著作に、第五回総会における興味深い議事録(速記)が紹介されていました。

元最高裁長官でのちに大勲位にも叙された田中耕太郎が日本学術会議の初期メンバーに居り、学術会議として講和条約(のちのサンフランシスコ講和条約)に関する声明を発するかどうかの議論において、以下指摘しています。
(※おそらく速記録からのものなので、発言の細かい部分は正確ではない可能性がある)

「学者の森」の四十年(上)151-156頁
「〇田中会員 この二つの全面講和賛成の声明につきまして、私は不幸にして不賛成の意見を申し上げたいと思います。もちろん国民おいたしまして、あるいは学者といたしまして全面講和にだれも不賛成なものがないのみならず、非常に熱望していおるということはこれは自明の理で、別に説明を要することではないと思います。また学者として思想の自由なり、あるいは研究の便宜、研究の発展ということを希望しないものも一人もない。また世の中が平和でなければ、あるいは国内においても、あるいは国際社会におきましても、平和でなければ学問も十分研究はできないし、またいろいろな制約がそこにくっついて来るということもこれも当然のことでありまして、その当然のことをこの際声明する必要もない。たとえば経済の復興ということは、これは非常に重要なことであり、特にわれわれ学問をしておるものは、国庫の窮乏によって研究費等はえらく削減せられて不便を感じておる。だからきわめて重要なことはもちろんであるから、特に学界はそれについて悩んでおりますから、日本経済復興の決議を一体この会議ですべきかどうかということ、これが問題になるわけであります。
 この問題は私は学術会議の性格を決定する非常に良い問題ではないか、一つのテストケースになりはしないかというふうに考えておるのであります。従来学術会議の目的ということが何かの目的に関連して、あるいは一般教育思想文化その他の問題につきまして、限界がはっきりしない。個々の問題につきまして決定されてきておりますようなわけで、この問題についてもし一つのわくを拡げますならば、今後停止するところを知らない、あらゆる問題は関係を持っております。学問の問題、あるいは経済の問題、あるいは政治の問題、外交の問題、世の中の重要な問題で孤立しておる問題というものはありません。殊に平和問題に関するというような問題はいろいろな点に関係して参りまするから、むろん学問や思想の問題にも全然関係がないとは決して言えないのみならず、相当な関係を持っております。しかしながらさような因果関係をたどって、いったいこの学術会議が取り上ぐべきほどの因果関係がはたしてあるかということがそこに問題になるかと思うのであります。単独講和という言葉が不適当であるならば、あるいは全部の国とではない、一部の国との講和を我々が欲するか、これは問題ではないのであります。全部の国と講和を欲することは当然でありますけれども、現在御承知のように問題になっておりのは、世間がああいうふうに論議しておるのは、一部の国の態度の結果、あるいは連合諸国の相互の間の複雑な利害関係の結果、単独講和説が出て来ておる。全面講和は当分見込みがない、だから単独講和をやむを得ず、それでもしないよりはよい、それに甘んじなければならないということから議論が出て来ておる。私はどちらの説をとるということをここに言うのではありません。
 とにかくその問題たるや非常に複雑であり、この問題について全面講和をかりに本会議が指示するというのであるならば、主張は先ほど説明があったように、学者らしい極めて純真な意図からなされたにしても、その影響を我々はかんがえなければなりません。またそれに対する責任をわれわれはかんがえなければならないと思う。かかるきわめて複雑なデリケートな問題につきましては、決して軽率なる態度をとって、いかに純真であるとは言え、純真な行動の場合に軽率なる場合もあるわけでありますから、その点も十分お考えおきを願いたいと思います。
 この問題たるや性質はどういうものであるかというと、二つの性質を持っておる。一つは政治的の性質であります。この問題は一体何がゆえに我々が全面講和を心から欲するのにかかわらず、単独講和あるいは一部の国との講和でもって甘んじなければならないという事情があるのかということを考えてみますと、その一部の国の態度、あるいは連合国相互間の複雑な関係によっておるのでありますから、その困難が一体どこに原因があるのかということを十分判断しなければ、この問題についての結論は得られないわけであります。さような意味でこれはきわめて政治的な問題になり、また経済的な問題にもなってまいります。太平洋沿岸の地域とのいろいろな関係、そういう経済的の問題、これはいろいろ複雑な問題がございます。全面講和でなければならないという説にも、それは関係があるでありましょう。しかしながらまた学術研究の資料を得るという意味から考えてみますと、やはりさようなアジア大陸との関係を密接にするという説も出て参りましょう。しかしながらさらに米州大陸あるいはまた中南米、そういう国々と早く講和をやった方がよいという議論も出て来る。もし研究の資料というような点を考えますならば、これはどの地域と講和を締結するか、あるいは全然講和なしにいつまで行くか、永劫とは申しませんけれども、当分見込みなしにどの国とも平和なしにずっとやって行くということが、学問上はたして好ましいかどうか。それとも一部の国とでも早く講和を締結して、そうして通商の自由を得て、そこから学問上の資料を得る、あるいは学者を交換するというようなことも好ましいということも言えるのであります。
 そうなって来ますると、学問上の立場から政治的に考えてみましても、いろいろ議論のあるところであろうと思います。いわんや一般的に広く政治的な視野から考えてみますと、単独講和、全面講和、これはきわめてデリケートな問題であるのみならず、これは国際法的法律の問題にも帰して参ります。単独講和がはたして可能なりやいなや、全面講和でなければできないか、あるいはそれはポツダム宣言との関係、いろいろの関係から、これは横田会員から詳しくうかがわなければならないのでありますが、非常な国際法的の、専門的の問題にもなってくると思います。従ってかような専門的な問題、国際法的な問題、純学問的の問題及び今度は学問を離れた純政治的な問題、それをこの会議が、意図はどうであれ希望を表明することによって、やはりそれに対してある態度をとったということになりはしないか私は学術会議なんかが、政治的にも問題にタッチすべきでないということは当然のことであります。もし政治的の問題にタッチするということになりましたならば、一方独立意思を表示していながら、他方政治的方面に関係するということになれば、学者の団体は往年の軍部と同じになってしまうのであります。
 さような意味におきまして、われわれは自治を守らなければならない。外部から侵されてはならないけれども、今度は外部についてゼスチュアで働きかけるということは、厳に謹まなければならないことであります。それからまた学術的の問題につきましても、この会議が何か甲乙のどちらかを支持するというような問題につきまして、学術的実質的の価値判断なり、あるいは理論をなしちゃならないのじゃないか。ところがこの問題は政治的の問題であり、また学術的の問題である。さような意味におきまして、私はかような問題にタッチするということは、そういう学術会議の権威の問題に関係するものであり、さような問題に軽々しくタッチすべきではないというふうに考えておる次第であります。結論といたしまして、この二つの提案には遺憾ながら賛成しかねる次第でございます。」

概ね、【学問的見地からの発信であっても、政治領域に渡る、結論が複数あり得る議論の対立があるような問題に関して、ある結論を学術会議として声明を発することは、特定の政治的立場を支持するということになり、学術会議の目的性質を考えれば、そのような発信は避けるべきである】という趣旨と言えます。

「横田会員」とは横田喜三郎というのちの最高裁長官であり、彼も田中耕太郎と同様の趣旨の発言をし、学術会議が決議を出すことに反対しています。

結局、第五回総会における本決議は反対多数で否決され、その後の総会でも論議されたが否決されています。

福島氏の著作では当時の2部(法学)の会員らの発言が多く取り上げられており、「当時の雰囲気」として彼らの発言が方向性を決めていたということが分かります。

が、その後現在の日本学術会議は、どうか。

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1950 年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明

1952年に破防法の成立に反対する声明

1967 年には「軍事目的のための科学研究を行わない声明」

そして2017年には「軍事的安全保障研究に関する声明」

また、1960年代に自衛官の学問の自由に対する侵害事案が発生したものの、学術会議が何ら声明を出していないところを見ると、当初の雰囲気から組織が変容していったのではないかと思われます。

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