ラムザイヤー論文批判文書の効用と批判者に対する疑問

ラムザイヤー論文を批判する文書がまたしても出ていますが、その効用と批判者に対する疑問…

【ところで『慰安婦が基本的に日本軍によって強制連行された性奴隷である』事を証明してる査読論文って何処にあるんですかね?】

この「ラムザイヤー論文」の問題点を指摘してる文書ですが、学術的素養のある者が読むと、むしろ「慰安婦は日本軍による奴隷狩りにより性奴隷化された」と思い込んでいた者の認識はかなり改まると思うんです。

この文書は盛んに「契約書が無い」と言ってますが、法的に言えば「契約の成立」要件や「契約関係の立証」のために契約書は必須ではありません。

ラムザイヤー教授が引用している文章について、その引用の仕方が杜撰だという指摘が為されていますが、その中で契約関係が推認されるような事情が表れています。

ここで本来問題にしているのは法的な契約関係の次元に限らず【事実上、一定の労使関係において役務の提供に対する対価が提供されていた関係】があったか否かという歴史学的な評価の次元ですからね。それは果たして「性奴隷」と呼ばれるようなものか?という話。

また、批判文書が「性奴隷」の証拠として挙げてるのは2020年の書籍(1996年に文玉珠=ムン・オクチュの証言を記録した森川万智子の著作がベース)であり、学術論文以前に「証言ベース」なわけです。

「性奴隷」をまずは否定するべき

ラムザイヤー論文批判文書は、文玉珠=ムン・オクチュの証言を主な証拠として扱っていますが、李栄薫 著「反日種族主義」でその理解について書かれています。

277p~を読むと、文玉珠=ムン・オクチュ証言を掲載した森川本では確かに憲兵に強制連行されたと書いてあるが、他の記述から朝鮮半島で発達していた周旋業者ネットワークに引っかかったことが示唆されると推測しています。

この点の推測が妥当かはともかく、文玉珠=ムン・オクチュは、1年間の慰安婦生活の後に脱出して妓生生活に戻った後、今度は東南アジア方面への募集に参加しています。このときも最初の慰安婦生活に向かう際も「松本」という男の紹介だったことが書かれていますが、何らの注釈も無いので同一人物だろうと推測されるとしています。

その中で、朝鮮人娼婦をバカにする言葉を発した日本兵に抗議したムン・オクチュ=文玉珠が刀で脅されたが、抵抗して逆に刺殺し、裁判にかけられたところ、その中で「私たちも日本人である、慰安婦に刀を向けるのは良いのか」と主張するなどして無罪になった(李栄薫はこの記述は脚色されてる可能性と指摘)事が記述されています。

また、ムン・オクチュ=文玉珠は「私の歌は日本の軍人を楽しくしたの。私は軍人たちを楽しくさせることが嫌いじゃなかった…良い人がとても多く居たの。皆、可哀想だった」といった証言も同時にしています。

いわゆる「性奴隷」扱いされていたなら決してあり得ない話でしょう。

そういう事情はラムザイヤー論文批判文書では書かれていないが、そちらの方は「搔い摘んだ引用」とは思われていないようです。

「査読論文」vs自由型文書

結局、ラムザイヤー論文批判者は形式面だけでなく、内容面にもわたる「ケチ」をつけてきているのですが、ラムザイヤー氏には「査読論文としてエリジブルではない」と言いながら、【批判文書は査読論文仕様ではない】、という非対称な状況になっています。

形式面についての指摘については、ラムザイヤー教授はきちんと修正をするべきだと思いますが、批判文書が解釈に渡るような内容面の妥当性についても混ぜ込んで主張しているというのは、アンフェアな気がします。

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