見出し画像

相互理解と共感の海へ。

理解がないな、と思う場面は日常少なくない。
ひとつは、今その場で取り上げているものの情報が共有されていない。次に互いの想像力の足りなさ
互いに推し量れていないので、同じ世界にいても見えてるものは別もの。

仕事で、趣味で、その同じ作品を愛好する人たちとの間で、そしてオンラインゲームの世界で。
頓に近頃は相互に理解が進まないものだなと寂しく感じることが増えた。

楽しむ為にその場に出かけたのだと言う時でさえ。

母の愛車に。

相互理解を考えていてふと思い出したが、些細な事だったかも知れない。
十数年前か、ダス○ンの委託業務でモップ回収に来ていたおばちゃんの行動が全く理解できなくて、即契約解除した事がある。

使用後モップの受け渡しをする時に、私とそのおばちゃんは私の自宅の駐車場にいた。
傍に停めてある母の車のボンネットに、そのおばちゃんが持って来ていた小振りのボストンバッグをドカッと置いて、モップ交換を始めたからだ。

ボンネットに置かれた瞬間、ガキッと言う金属音
鞄の外底部に取り付けられた底鋲の音だ。
底鋲のある鞄だ、そのまま地面に置けばいい。他人の、しかも客の車に自分の鞄を置くのは理解できない。
鞄を触る度に擦れる金属音がする。

『そこに置いてはダメです』
『え?』
『鞄を下ろして』
『えっ?』
『傷がついたよ車に』
『え…そう?』
『申し訳ないけど、今回限りで結構です。このモップはもう持ち帰って下さい。』

レンタル代金を支払って、呆気にとられているおばちゃんにお引き取りいただく。
ボンネットに付いた傷の修理代金を請求したかったが、委託業務をしている主婦が多い狭い田舎で波立つ事を避けたかった母から、やめておけと制止された。
母の車なので持ち主がそう言うのならと引き下がったが、その傷は修復に5万円前後は掛かる様に見えた。
モップレンタルを継続していた期間の費用より、傷による損失の方が大きいと思えた。

個人の所有物に対する配慮の足りなさ、車に傷をつける行為を無自覚に行ってしまう想像力の足りなさ。
車やバイクが好きな私には、なんとも遣る瀬無い気持ちになった。

また、母の車は国産の稀少な限定生産のスポーツカーで、見た目にいかにもなパーツ満載だ。スポーツカーと見ると大抵は大切にされているものと見做されそうだけど、その上にドカッとバッグを置いてしまうのは、どうゆう了見なのか?私には想像できなかった。

母は
『人のモンのコトがわからんし、知らんのやろ』
で終わらせた。

スポーツカーは大抵は大切にされている価値あるもの、と言う私の認識をそのおばちゃんとは共有していなかった。
そのおばちゃんには、この稀少な国産スポーツカーの価値は解らなかった

そのおばちゃんと私との間には、相互理解に必要な『共感』が存在しなかった。

共感に必要なモノ?

人が大切にしているものを…と絶句していた私だが、そこは冷静に「この車は私や母がとても大切にしているもので、金属パーツのついている鞄を置かれて摩擦傷を付けられるのは、非常に不愉快です」とまで説明すればよかったのかもしれない。

そのおばちゃんが車についてどういう価値観を持っているのか?知識はあるのか?私は確認しなかった。
しなかった上に、他人の所有物を勝手に触らないだろうという期待もある。

お互いに相手の視点になって見ることが足りなかったと思う。

共感と言われる感覚は、どんな人も生来ある程度備わってるものだそうだ。
友だちが何か話し辛そうにしていれば「何かあって今は辛い気持ちなのだろう」と考える。
また、相手の気持ちを知り、その気持ちに寄り添おうとして、その気持ちを推し量かる。(自分なりに考える)
相手の視点になって考えてみる

そういった行動や態度が、私の知る昔に比べて圧倒的に足りないように感じる。

相手のことを知らないから、知ろうとしないから起こってしまうトラブルや衝突を眺めて、心が痩せ細って行くように感じる。

(※共感・同感・思いやり・同情は全く同一のものとは看做せないと思うけれど、それはまた別の機会に考える。)

共感と相互理解の座礁。

お互いに理解を深める為に共感が必要なのに、それがない。
共感は与えて貰ったり提供するものではなく、先ず自らの内から湧き出るものだと私は感じている。
センスと呼ばれることもあるその感覚は、磨いて研ぎ澄ますことができるものだとも感じている。だから常に磨いて、メンテナンスをして管理していなければ、いつの間にか鈍ってしまうのではないかと思う。

件のおばちゃんとは解り合えなかったが、そのおばちゃんを知ろうとすれば違う反応もあったかもしれない。

仕事で、趣味で、その同じ作品を愛好する人たちとの間で、そしてオンラインゲームの世界で。
ここ数年で急速に欠け始めたと感じる相互理解を想う。

同じものを愛好しているであろう人たちとの意見の衝突。
オンライン上の発言の場で叩いたり叩かれたり、その中でも口調の強いものは集団ヒステリーのようにも見える。(傍から見ればかなり滑稽だが)
白黒つける手段しか取らない、価値観を押し付ける、そうすることで防衛した自分の世界に、誰かが何かを楽しみにして訪問してくるのだろうか。
特にかつて、映画やゲームなど趣味の愛好者間で存在していた『尊重』と言う名の不可侵条約は今や幻となった。

時には共感することに対して、なにかしらの対価を求める人さえいる。
称賛であったり、共感の強要であったり。
共感は、対象を認めてそれに従うことではないので、私もしくは私たちを認めて共感したのであれば従属=降伏して当然と言った感覚を持っている方がいるとすれば、とても寂しく思う。

お互いの視点や考え方の違いを知って意識してこそ相互理解は一歩進むのでは、と私は考えている。
根拠のない同一視(投影)を用いるのが危険だと感じるからだ。

人が楽しみにしていることを予想もせず、ズカズカと口出ししてくるなんてのは、今の趣味の世界ではどの分野でも見かけるのではなかろうか。
(私が仕事にしている海のレジャーの世界ですら起こっている)

お互いに円滑な交流をするために、共感につながる配慮を一呼吸おいてできたなら。と、悔やまれる場面はなかなか減らない。

これは、学校で心理学を学んだわけでもなく、日々の疑問を解決したいとヒントを求めて書籍などを読み漁っているだけの一般人の走り書きだ。
その自分の感覚も、今はどの辺にあるのか?GPSを使うが如く確認したい、それが私にとって「考え続ける」と言うことだ。

(感覚や気持ちを言語化しようとする過程で零れ出たものを集めてここに持って来ているので、もっと整理する必要性も感じつつあります。)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?