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特にない。強いて言えば、なんとなく

「なんで大学辞めたの?」
家族や友人に今まで何度も質問された。
その度に僕は「ちょっと鬱気味になっちゃって…」とか、「大学の授業が高校の延長線みたいに感じられてつまらなくて…」とか、「決められたレールを走るのが嫌になって…」とか、色々とそれっぽい答えを返してきた。
まるで面接官に志望理由を聞かれる就活生のような気分で。

嘘だ、全部嘘だ。

本当は分かっていた。
でもどうしても僕は「それ」を認められなかった。
だって常識的にあり得ないから。
他の人に話しても納得してもらえるはずがない。
そもそも自分でも納得いっていない。
だから何度も自問自答を繰り返してきた。
期間にしておよそ4年。
答えは出なかった。
それもそのはず、いくら頭を捻って理屈をこねくり回しても、そもそも存在しないものをでっち上げようとしているんだから。
そうして疲労と諦念の果てに、ある日「それ」を肯定するような理屈を僕は発見した。
自分が何を考えてるかなんて、自分が一番分かっていない。
この理屈も明日には否定されているかもしれない。
けれどとりあえず今のところの暫定解として僕の考えを書き残しておく。

「特にない。強いて言えば、なんとなく」


納得してもらえる自信はないけれど、理解はしてもらえるようがんばって話してみます。



まあしかし、とは言ってもそんなに長々と説明すべきことはないので、いきなり核心に迫ろうと思う。

「大学を辞めるなんて重大な意思決定が、何となくみたいな理由でできるわけがない」という意見。

僕はこの意見に反論できず4年間苦しめられてきた。
重大な意思決定には必ずそうするに至った理由や過程があるはずだから、僕の場合も例外ではないはずだ。
しかし、僕の価値基準はどうやら破綻していたらしい。
つまり、

大学を辞めるという意思決定は僕にとって重大なものではなかった。

ということである。

例えば今日履いていく靴下を選ぶときを想像してみて欲しい。
果たしてあなたはその靴下を選ぶ理由を説明できるだろうか。
今日はそういう気分だから?色が好みだから?
それっぽい説明はできるだろうが明確に答えられる人はそう多くないだろう。
さらに他の靴下を差し置いてあえて今日それを選んだ理由、まで考えるといよいよもって答えられる人はいなそうだ。
つまり、小さな意思決定は日々の生活の中で特に理由など無くなんとなくで行われているのである。

しかし「小さな」意思決定とはどんなものなのだろうか。
この問いを掘り下げるために、同じ説明をファッションに強いこだわりを持っている人に求めてみることを考える。
恐らくなんとなくとは答えないだろう。
どんな場所に何をしに行くのか、今の流行はどうか、など様々なことを考えそのファッションの一部として靴下をチョイスするはずだ。
つまり、この人にとって靴下選びは小さな意思決定とは言えず、だからこそそこにはしっかりとした理由や過程が存在する。

そして以上を踏まえると、次のようなことがわかる。つまり

意思決定において、その大小は少なからず個人の主観によって決まっている。


恐らく大きいー小さいの間はグラデーションになっており、そこに各々が自分の経験、価値観、あるいはその時の社会常識も加味して線引きをしているのだろう。
でも、その線引きが個人の主観で決まるのならそれが常識を外れて極端に振り切れている奴、あるいは線引きそのものが存在しない奴だっているかもしれない。
恐らくそれが僕である。

僕にとっては人生におけるほぼ全ては小さな意思決定の範疇で行われているのだ。
今日履く靴下を選ぶのも、学校を辞める選択をするのも僕にとっては大差ないというわけである。
すると「それはお前が何も考えていないただの馬鹿なだけではないのか?」という反論が出てきそうだが(実際は自問自答の中で浮かんだ意見だが)、僕は「ではあなたは自分が今日なぜその靴下を選んだのか説明してください」と返そう。

なぜその色、その柄を選んだのか
外の天気やどこに行くのか、何をしに行くのかなど当時の状況が靴下を選ぶことにどんな影響を与えたのか。
あるいは内面的な部分から、その色その柄の靴下を好きになったきっかけが過去にあるのか。
今日選ばなかった靴下にはそれぞれどんな理由があるだろうか。
etc…

全く馬鹿馬鹿しいだろう。僕もそう思う。
でも僕はかれこれ4年ほどこんなことばかり考えてきた。考えて考えて、そして疲れてしまった。

僕は恐らく何も考えていない馬鹿ではない。
多分どうしても、学校を辞めるという選択が自分にとって重大なものだと思えなかったのだ。

僕は今日履いていく靴下を選ぶように、学校を辞めてしまった。



いかがだっただろうか。
納得はしてくれなくても、こんな生き方で生きてるやつもいるんだなと理解してくれれば僕は嬉しい。
ちなみに僕がこのような生き方をどう評価しているかというと、もうしょうがないから受け入れるしかないよねといった感じだ。
しかし一体全体僕のこの価値観はどういう過程で作られていったのだろうか。
そこら辺については語るべきことがまだまだ残されているが、僕もちょっと疲れてきたのでそれはまた気が向いた時に続けるとしよう。

それでは、ここまで読んでくれてありがとうございました。

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