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僕は自由か

決定論というものがある。

世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方らしい。

誰が定めているのかといえば、神とか物理法則とか色々呼び方はあるが、そこは各々の信条や宗教に任せるとして。

ともかく、砲弾を射出してその初速と角度から落下位置を計算するように、この宇宙の成り行きはビッグバンの時から全て決まっているらしい。

もちろん僕の人生も例外ではない。

僕が生まれた時には既に、僕が死ぬ程努力して高校、大学と進学していくことも、そしてやっとの思いで入った大学をあっさり辞めてフリーターになることも、そして今から夕食のカレーを食べるであろうことも決まっているのだ。

この先僕がどんな人生を歩むかも全て決まっていて、そこに僕の意志が介在する余地はない。(実際科学の進歩によって人間に自由意志が存在するのかというところは疑問視されるようになってきている)

さて、ではこの思想を受け入れた場合、僕は果たして自由なのだろうか。

僕の答えはイエスだ。

その理由を説明するために、一つ例を出そう。

水は自由だろうか。

ある時は絶え間なく流れる川であり、ある時は無限に広がる大海原であり、ある時は大空を悠々と泳ぐ雲であり、ある時は大地に降り注ぐ雨であり、またある時は蛇口を捻ると出てくる水である。

ああ、水はなんと自由だろうか。

しかし、例えば川に流れる水をその手で掬ってみるがいい。

それを川に戻してやるも良し、河岸にぶち撒けるも良し、飲んでみるも良しである。

この水がこの先たどる運命は文字通りあなたの手の内にあり、例え水に意思があったとしてもその意思が考慮されることは全くないのである。

ああ、水はなんと不自由だろうか。

つまり水は自由であり、同時に不自由である…?

僕はこの矛盾した事実に突き当たり、ちょっとばかし悩み、そしてこう解釈することにした。

水は完璧に不自由であるが故に、完全に自由な存在なのである、と。

水はその実ただ成り行きに任せているだけなのだ。

川にあれば流れるだけ。

海にあれば広がるだけ。

空にあれば浮かぶだけ。

そしてただ大地に向かって落ちてゆくだけ。

水自身に自分の運命を変える力がないからこそ、水は何にでもなれるし、何処へでも行ける。

そしてそれは多分僕自身についても同じことが言えるだろうと思うのだ。

自分の手を見て好きに動かしてみる。

開いて、閉じて

僕がこの瞬間指を動かすことは既に予定されていて、僕の頭上にいる神様がマリオネットのように僕の指を思うがままに動かしているのだが、僕は全く不自由を感じない。

もし僕が不自由を感じるときがあるとすれば、それは僕の指先から天上に伸びる糸が「見えてしまった」ときだろう。

真に不自由な者は、己の自由を奪う糸の存在を感じることすらできない。

であればその者は、真に自由であることと何が違うのか。

もし僕の運命があらかじめ全て決まっていたとしても、僕にそれが見えなければ良いというだけの話なのである。


なんだか柄にもなく小難しいことを考えてたら腹が減ってきてしまったな

やっぱ今日はカレーじゃなくてマックにしよ

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