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さようなら、恋人の小さなアパート

大きなお腹をした女性たちに混ざって母親学級になど参加していると、出産の日が徐々に近付いて来ていることを実感する。

お産のイメージトレーニング中に、助産師の先生に「気持ちの良かったことを思い浮かべてください。例えば、青空に向かっての深呼吸などです」と言われた時、わたしが思い浮かべていたのは、恋人とのエンドレス・カンパリオレンジ・ナイトだし、「安らぐものを思い浮かべてください、草原などですよ」と言われた時、わたしが真っ先に思い浮かべたのは、恋人の裸だった。

例に挙げられたようなイメージとはだいぶ異なったが、イメージトレーニングには個人差があると思うので、仕方あるまい。
ここは正直にいこう。

そして、もらって帰ってきた「妊娠中の栄養と食事」という小冊子に自分で目を通しもせず、恋人に渡す。
もはや、うちの栄養士は彼です。

2018年8月29日

今朝、久しぶりに「悲しい」という感情が浮上して、だんだん充満して、やがて溢れた。
だから、泣いた。幼い少女のように声に出して、えーん と。

思えば、自分の母親が声を出して泣いているところなど、見たことがない。子供の前では泣くまいとしてくれていたのだろうか。
わたしは、泣かない大人になれるだろうか。

初めて、恋人の行動(もちろん男女関係のような類では無い)で、どうしようもなく悲しくなった。
何度も謝ってくれて速やかに仲直りしたし、もちろん愛は消えない。それどころか、愛しているからこんなにも悲しいのだ。
愛すれば愛するほど、愛は、とても不自由なものにもなる。

互いの弱さを受け入れ合うこと。
人生は順調な時だけではないと知ること。
助け合う必要がある者同士だからこそ、愛する想いを与えられたということ。

誰かと支え合って生きてゆくのなら、見つめなければならないことは、たくさんある。 

2018年8月30日

久々に恋人のアパートを訪れた。
もう時期、彼がわたしの部屋へ越してくるので、恐らくここへ来るのは今日が最後だろう。

見事に壁一面に陳列したスターウォーズのキャラクターたちのフィギュア、互いにはみ出さないように眠るのが大変な一枚の小さな敷布団、朝日が眩しいと言っていつもわたしが文句をつけていた、長さの足りないカーテン。

大人の男の部屋にしては高校生じみていると正直思うし、贅沢に興味の無い恋人らしい小さな部屋だが、彼にとっては「住めば都」だったはず。
ここを離れてもらうことを、少し申し訳なく思う。

そんなことをぼんやりと考えながら、キッチンから聞こえる料理の音と、漂って来るとてつもなく美味しそうな匂いを、布団の中で微睡みながら感じている。

この部屋では最後なので、ちゃんと(ちゃんと?)セックスもした。
ここで愛し合うのが大好きだった。
たくさんワインを飲んで気分の高揚した深夜に、薄い壁を気にしながら声を潜めてするのも、朝や昼間は明るくて恥ずかしいけれど、身も心も曝け出し合ってするのも。

終わったあと裸で抱き合っていたら恋人が、「こうして僕たちのお腹とお腹をくっつけてると、すでに ぴょん(というのがお腹の子のニックネームなのだが)と、川の字で寝てるみたいな気分になるね」と言った。

さようなら。
善福寺の、恋人のアパート。

2018年9月1日

友人夫妻を招いてホームパーティをし、ゲストが帰ったあと恋人がわたしに向かって、「ピアノの上の照明、点けてくれてたね。雰囲気があってとても良かった。ありがとう」と言った。

この人は、すべての食材の買い物に行き、それに合うワインも揃え、ゲストを唸らせるご馳走全般を作ったというのに、たったひとつ、電気を点けただけのわたしの行動を褒めた。
自覚はないと思うけれど、人の頑張ったところ、良いところを見つけ出して褒める天才なのだと思う。
(そしてそれは彼の母からの遺伝であることが、のちに判明する。)

2018年9月7日

恋人の画家の妹から、展覧会のお知らせと、メッセージカードが届く。
わたしたちの子供の誕生を楽しみにしてくれている様子が綴られていた。

心に染み入ってくる、彼女の選ぶ言葉と手書きの文字の持つ力は、いったいなんなんだろう。
飾り気のない一枚の葉書なのに、彼女の透明な心に触れた気がして、涙が出る。
決してぶれることなく、静かに己とだけ闘っている女性なのだと思う。

そして同じタイミングで、恋人の両親から荷物が届く。大きな箱にこれでもかとたくさん詰められた、果物や野菜や卵やお菓子。
記念日などでもなくなんてことない平日なのに、「栄養つけて頑張ってね」という意味らしい。

本当に優しい家族だ。
わたしは持ち合わせない優しさだけれど、最後尾から彼らに着いてゆきたい。

2018年9月7日

着物を着るお仕事のある恋人が、突然うちに来て、お支度を始めた。
ベッドに横たわりながら、長襦袢姿の彼を見つめる。長襦袢は、着物の下で誰にも見られることの無い秘めたお洒落だから、それを眺められる特権が少し誇らしい。

伸びていた髪を切ったばかりの爽やかな様子で、着物を綺麗に着付け終えた恋人。
粋で、とてもイイ男だよ。

心根の優しい、素敵な素敵な、わたしの若旦那さん。



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