映画感想:「ドント・ブリーズ」は沈黙に回帰し、革命を起こした映画だ。
映画は沈黙に回帰し、革命へと繋がろうとしている。
さて前回は「ドント・ブリーズ」は時間を正確に刻み正確なタイムテーブルで脚本をシンプルに仕立てているという文章を書いた。しかし書いてる最中で発見を書きたくなってしまったので続けて書こうと思う。
私のような若輩者が映画の何たるかを語るのもどうかと思うし、映画研究家でもないし、つまりこれは素人意見のようなものだ。根拠もないし思いつきで書いているのでそこを間違えないでほしい。
さて冒頭の文章の意味だ。
映画というのはジュール・ヴェルヌ原作のジョルジュ・メリエス脚本監督の映画「月世界旅行」というサイレントモノクロ映画から始まった。ちゃんと言えば映像を録画するというのでは他の作品がそうかもしれないが、個人的には「存在しないものをストーリーを表現したいためにトリック撮影やお芝居をして新たに作品を作り上げた」ということではこの映画が一番最初だと思いたい。
話しが逸れそうになってすまない。とりあえず映画の最初はサイレントから始まったことを知ってほしい。BGMは存在するけどセリフは字幕で表現するか読み上げるしかない。登場人物がしゃべるのはもっと後の時代だ。「ニュー・シネマ・パラダイス」でそう言ってた気がする。
そして映画は発展して登場人物がしゃべるようになった。まぁこっから発展の仕方はあるだろうけど私は映画研究家じゃないので知ってる人は詳しく私に教えてくれると勉強になる。とりあえず映画と音が密接になったことを注目してほしい。
さらに映画はどんどん豪華になっていった。表現がだ。音楽を豪壮にし、映像も派手になっていく。爆発だドーンだ火薬だ人数を増やせ。リアルに虚構を表現するために取れる手を取っていった時代だ。しかしそれでも足りない。存在しないものを存在させないとフィルムに焼き映すことができない。
そこで登場したのがCGだ。特撮はあってもCGによって本当に存在しないものを映像として作り出すことができるようになった。無限の宇宙も存在しない怪物もいろんなものができるようになった。いいことだと思う。その結果どんどん映画というのは金がかかり豪華なものになっていった。
ここでようやく本題に到達できる。今の時代であっても映画の新参者はいる。しかし金をかけるのはちょっと無茶があるってもんだ。だからこそこじんまりとした映画だったり工夫を凝らす必要があった。安い映画でも一攫千金できる時代を望むのだ。
だが忘れちゃならない。表現をしたいからこそ人は創作をするのだ。
そこに描くものがなくっちゃあ意味がない。
そして「ドント・ブリーズ」は思いがけずに映画の新しい時代を切り開いた。
感情の共感を与えるのだ。
ドント・ブリーズの中で主人公たちは「盲目で聴覚が桁外れに優れた男」から隠れ逃げなければならない。音を立てたら見つかるのだ。この表現の仕方が美味いからこそ見ている観客だって静かに黙ってしまうし、ポップコーンを食べることすら躊躇ってしまう。
この瞬間、登場人物と映画の観客たちは感情がシンクロしているのだ。「白」を描いた画家の藤田嗣治のように、沈黙という「音が存在しないもの」を表現する時代を切り開いた。
「音を表現したくてもできない映画」から「音も出せるし存在しないものも作り出せる映画」となり、そして今の時代になって新たに「音が存在しないことを描く映画」が生まれたのだ。
映画が「沈黙」に回帰しつつも、その「沈黙」は過去とは別物の革命的な表現の取り入れなのである。
「クワイエット・プレイス」という映画が出たらしい。音を立てたら正体不明の怪物に襲われて殺されるとかそういうものだろうと推測している。結構ドント・ブリーズに似ているような気もする。あえて予告編は見ていない。それは邪険にするというよりも初見に起きる感動を最大限に味わいたいからの賛美的な行動なのだ。
今まさに映画は「感覚の共感」という新しい世界を切り開こうとしている。日本での無の文化というか禅の理念というか、「無いものが有る」を表現しようとしている。
「ドント・ブリーズ」はその先駆けたる名作なのでぜひ見てもらいたい。
あなたはきっと、そこには存在しないのに、確かに存在する恐ろしさを体感する。
読んでくれてありがとう。せんきゅー。
私は金の力で動く。