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犯罪の原因は「現実と虚構の区別がつかない」ではなく、「認知機能が低いのではないか」という話。

こういうのを書くならまず小説を書こう。前置き終わり。
今回のトピックは、朝早くに見かけた文章を見かけてアドリブで書いたものを、ライトに編纂したものである。後から加筆修正するかもしれない。

「リアリティがない」って具体的に何なの?

『人間は現実と虚構の区別なんてそう簡単につかない、フィクションからの影響を容易く受ける』
『現実と虚構の区別が簡単につくと主張する人間は、なぜフィクションにおいてさえ「リアリティ」が求められてるのかを理解してない』

この文章を見て、なるほどなー。と納得する部分とそれは違うんじゃない?と反論する部分とが混在した気持ちを抱いた。

「何故リアリティが求められてるのか」であったが、そもリアリティのない物語とはどういうものになるのだろう。
剣や魔法のファンタジー世界でリアリティを描くことはできないのか?

答えは、描けないことなどない

ファンタジー世界であろうと、たとえば「人間と魔族の間の差別、民族的な食い違い、宗教や風習の違い、それによる益体もない戦争と闘争」を描いて登場人物の苦悩や試練、それを乗り越えるための感情と行動と結末が描ければ、それはそれで「リアリティのある」物語になるわけだ。

メルヘンチックな世界だったらリアリティがないのだろうか?
メルヘンチック、と言う言葉も相応しくはないな。「ぬいぐるみたちが生きる世界」「どうぶつたちが仲良く暮らす世界」でも物語を描くのであれば何かしらの事件や試練が起きて、それを解決するための感情と行動と結果が現れるわけだし。
「おもちゃには命や人格があって人知れず動いている」という『トイ・ストーリー』は名作だし。

実は「リアリティがない」とは「物語の動かし方が悪い」だけだったりするのではないか、と。

「解決できない巨大な問題が突然現れた神によって全てが解決される」というデウスエクスマキナ的な方式ならばリアリティがない、とも言えるかもしれない。
要はリアリティの有無とは「問題の現実性」というよりか「解決の現実性」だったりするのかなと。定義がそも曖昧なんだ。

リアリティがないという曖昧な定義の言葉そのものが、自分の嫌いな対象を幼稚なものだと攻撃するための便利な道具に成り下がってるのではないか?

区別がつかないではなく、認知機能の問題ではないか?

何故この話をしようと思ったかと言えば、現実と虚構の区別がつかないではなく、認知機能の問題なのかなぁと。


『ケーキの切れない非行少年たち』という新書の中で「犯罪を犯す少年たちは認知能力が低く、丸いケーキを三等分できなかった」という記述があった。名著だと思うので皆にも読んでもらいたい。

さて、巷でよく「リアリティのない作品」の槍玉に挙げられる、アニメや漫画やゲームについてだが、こう言われる。

「アニメや漫画は認知機能が低い子供が見ても理解できるからアニメや漫画は幼稚なものである」
「だからアニメや漫画を好むものは認知機能が低いので、現実と虚構の区別がつかず犯罪を犯しやすい」という理屈?

おかしいだろう。認知機能が低くても見られるものを見たら認知機能が低くなるのか?
幼稚性が犯罪の要因というのもおかしな話だ。それならば子供は生まれてすでに幼稚であるのだから、全員犯罪的な行為をしなければ矛盾する。
しかし現実ではそうはならない。個人差があるからだ。

では、その個人差とはどこからくる?

認知機能の低さが犯罪を起こす

今時点で『ケーキの切れない非行少年たち』が手元になく、記憶と別の論文を読んで自分の中で噛み砕いた言葉だ。

犯罪を犯してしまう少年たちの認知機能の低さが現れる行動とは。
「ケーキを等分に切れない」「明日や未来の予定を立てられない」「カッとしたら殴る以外に手段を知らない」などで、一見すると幼稚的とも言える行為であるが、認知機能が低いために彼らには他の手段を選ぶことができない。
その結果社会関係との摩擦が生じて、どうしようもなくなって犯行に至るというプロセスだ。

日本でオタク叩きの原因ともなった宮崎勤の件についても、彼個人の認知機能の障害ではなく、彼の認知機能の低さから連想される幼稚性とが「認知機能が低い彼でも好むことができたアニメや漫画は犯罪の温床である」という風に、短絡的なマスコミ報道によって歪められたのではないかなという。

秋葉原での連続殺傷事件で犯行を行った加藤智大についても、彼の弟の証言を参考にするならば、彼自身が母親から過度な養育(完璧を求める、全て母親がチェックする、ものを買えない、娯楽も交友も排除)を受けたのが人格形成に影響を与えられた結果ではないかなぁと。
彼はアニメや漫画やゲームを禁じられていたのがポイントだ。つまり幼くても見られる作品を見たから認知機能が低下したわけではない。見られなかったのだから。

宮崎勤についてざっと調べてみたら、彼は手の平を上に向けられない身体的障害があって、両親の判断でそれを治療されずに幼少期からからかわれたり両親や学校の先生から助けられなかったりで辛い思いをしたらしい。
幼少期の人格形成という点では大きな要素になると思う。

アドリブで書いてるせいで色々話がとっちらかってきた気がするな。

この2例から指摘したいのは、犯罪の原因ともなりうる認知機能障害の要因は、アニメや漫画やゲームではなく、特に親からの幼少期の人格形成への影響が大きいのではないか、というとこかな。
なぜ親かと書いたか? 子供の生育に一番携わり影響を与えるのは育ての親に他ならないだろう。

犯罪を犯す原因は創作物の影響ではなくて、個人の認知機能の問題ではないか。

「アニメや漫画やゲームは幼い子が見れて、現実と虚構の区別がつかないほど幼いから、犯罪を犯す」ではなくて。

認知機能が低いために社会的摩擦を生じて犯罪を犯してしまう、その要因は幼少期の人格形成段階における環境が大きい」のではないか、と。

しかし日本のマスコミは実に短絡的だった。「犯罪者は社会からの異端者である」という結論を導きたいがために、宮崎勤が晴海のコミックマーケットに作品を出品していたことを「異端性」として報道し、アニメや漫画やゲームが犯罪の要因であると歪められた認知を世間に植え付けてしまった。
それと同時に、アニメや漫画やゲームが幼少にも受け入れられる垣根や世代の広さが「総じて幼稚なものである」と問題のすり替えが発生した。

そしてそれは今も続いているが、変化しつつある。世代が代わり情報の発信者が個人へと変わりつつあるからか、この欺瞞は晴らされようとしている。

それでもなお、短絡的な攻撃をする人はいる。

この作品は未熟だ、つまり幼稚だ」という攻撃をしたいために、作品の虚構性だけを意図的にピックアップして「アニメや漫画やゲームは現実に存在しないものを描いているからリアリティがない」という空虚な理論が出来上がってしまっているのではないかという。

それは、とても悲しくもあり、理不尽な理論であると思う。

極めて粗雑なまとめになってしまったが、自分でもここまで書けてしまう思考に驚きつつ、アドリブ性をもっと鍛えなくては、と反省する箇所も多いのでここで締めくくる。

また会おう。



私は金の力で動く。