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アメリカン・フットボールにハマった、昭和の大学生

 先日、私とアメリカン・フットボールとの出会いについて書いたが、今回は、それにハマった大学時代についてお話しする。

時はバブル前夜

 ハマったとはいっても、特別ストイックなアメリカン・フットボール生活を送ったわけではない。
 時はバブル前夜。適当に勉強して単位とって、なんとか“大学卒業”の肩書を得ればそれなりの社会人への道は開けていた時代だ。そこにあったのはアメリカン・フットボールを中心に置いた、「昭和の終わりごろの大学生の生活」だった。

 書いていて思った。これ、“サッカー部”でも“ラグビー部”でも同じじゃね?まあそうかもしれない。それに、ありふれているといえばありふれた話。だが「この話ってもしかしたら今の大学生とは全く違う、新鮮な(?)話なのかも」なんてことも思い、文章にしてみることにする。

ある夏休みの一日

 アメリカン・フットボールのシーズンインは9月。よって、8月は大事な公式戦への準備となり、練習も山場となる。たとえば、ある夏休みの一日。

朝9時頃 起床 
 少し開いた窓の隙間から抜けるような青空が見える。ああ、今日も暑くなるな・・・。食パンを2,3枚焼いて冷蔵庫からジャムを引っ張りだしてつけて食べる。たしか毎朝の朝食はそんな感じだったと思う。原チャリで10分そこそこの、大学のグラウンドへ向かう。

朝10時 練習開始
 すでに熱い。実家のある地方も夏は蒸し暑かったが、大阪の夏はまた違った形で厳しかった。今ではあまり耳にしなくなったが、まだ、“光化学スモッグ発生!”なんてニュースが流れることもあったと思う。

 あんな暑い中、よくあのアメリカン・フットボールのギアをつけて練習なんかできたものだ。かろうじて、「練習中は水を飲むな!」みたいな今では考えられない理不尽な定説(中学生の野球部の頃はそれが定説だった)はなかった(というか大人だからそれが無意味とわかっていたのかも)ため、合間合間にスクイズボトルの水をガブ飲みはできてはいたが。

12時から1時頃 練習終了
 体育会公認ではあるが部室はなく、体育会共有の倉庫前で着替え。ちなみに、倉庫の中は、いつ使うのかわからないようなマットやらなにやらで足の踏み場もない。白線用の石灰のほこりが充満しているうえ、汗まみれのギアやヘルメットをろくに洗いもせず干してあり、とても5分といられるような場所ではなかった。シャワーを浴び、大学近くの喫茶店へ。

1時から2時頃 昼ごはん
 行きつけの喫茶店でいつものランチ。特にそこが格別おいしいとか、格別安いとか、というわけではなかったが、アメリカン・フットボール部との波長があっていた、というものなのだろう。
 ハンバーグとメンチカツのセットランチが定番。メニューが多くなかったのもあるが、そのセットは2,3日おきくらいで食べていた。ちなみに、アイスコーヒーのことを「れーこー」とオーダーすることに慣れるのに1,2か月くらいかかったと思う。

2時すぎ 喫茶店の隣の雀荘へ
 多いときはアメリカン・フットボール部員だけで5,6卓囲んでいた。私は実家で家族麻雀をやっていたためルールくらいは知ってはいたが、大学デビューの同期も多数いた。でも、そういうヤツのほうが勝つんだよな・・・・。
 その雀荘は、役満をアガると記念に当たり牌のキーホルダーをプレゼントしてくれた。4年間で随分な数になったが、あのキーホルダーたち、どうしたんだっけか?
 幻といわれる九蓮宝燈をツモったときのことは、今でもその盲牌の感触を覚えている。ちなみに、その時ツモったアガり牌は四萬だったが、その頃、難しいと言われる萬子を含め、すべての牌を盲牌できる指先を持っていた。全然自慢にならないが。

5時頃 解散
 「今日はこれくらいにしとくか」の声で解散。誰からともなく、「明日練習休みやし、難波でも行くか」の声(ちなみに、夏休み中の練習は3日やって1日休み、のペース)。
 大阪の南のほうにある大学だったため、遊ぶのはもっぱらミナミ。戎橋は当時から“ひっかけ橋”として有名、グリコのネオンは今現在のものから2,3世代前(もっとかな・・)のものだったと思う。

7時頃 道頓堀沿いの酔虎伝(居酒屋チェーン)へ
 Googleによれば今でもこのチェーンは存在するようだ。ただ、当時あった目抜き通りの店舗は今はない。

 だいたいいつものメンバーだと4,5人程度。目立たず騒がず、ごく普通の若僧のグループ。スマホも携帯もない時代、ただひたすらに飲んで語っていたと思う。何を語っていたか・・・は思い出せない。思い出せないが、アメリカン・フットボールの話題と女の子の話題だけは欠かさなかったはずだ。

9時頃 一次会終了
 ひとしお飲み、通りへ出たら、フラフラと道頓堀、心斎橋界隈を徘徊。2軒目の“ナウいカフェバー”へ。うーん、その言葉、すでにビミョーだったかもしれないが、“死語”とまではなっていなかったはずだ。
 20歳そこそこの野郎の集団、当然このくらいの時間になれば女の子に目が行く。しかし、大阪とはいえ郊外の小さな町の地味な大学の学生だ、女の子に声をかける勇気のあるヤツもおらず、「俺たちにふさわしい女がいねえ!」みたいなデカいことを言いながら、野郎だけでクダをまいていた。

11時頃 〆
 2軒目の後、またもやフラフラと道頓堀、心斎橋界隈を徘徊。屋台のたこ焼きかラーメンで〆。いまでは大阪で押しも押されぬ名チェーンになった「神座」が、まだ裏路地の小さな店だった。
 今の大学生なら次はカラオケ、となるのかもしれないが、当時、一応“カラオケ”という言葉は存在し、カラオケが置いてある店もちらほらあったが、まだまだマイナーなもので、もちろんカラオケ・ボックスなどというものは存在しなかった。
 一人のメンバーが大阪市内に住んでいて、そいつの家へ。飲み直しながら語り合う。「ビッグになろうぜ」みたいな話をいつもしていたような気がする。そして・・・

2時とか3時頃 寝落ち
 さすがにこの若さでも、炎天下でのアメリカン・フットボールの練習後だ。誰からともなくいつの間にか寝落ちしていく・・・・

 前述したとおり、スマホも携帯もなく、インターネットなんて言葉もない。パソコンは大学の研究室にプログラミング用に2,3台置いてあったが、それを使うのは実験用のプログラムを走らせるときだけ、という時代だ。

 それでも、あの頃の日常を思い返していて、別にスマホなんてなくても全く不自由せず楽しめていたことを、改めて思い出した。まさに、古き良き時代だ。

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