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死刑廃止論2.0

日弁連が死刑廃止に関して提言をしたようだ。

私は死刑廃止自体には賛成なのだが、巷で流布しているような死刑廃止論には与しない立場である。

例えば、冤罪が起きたときに取り返しがつかないというものがある。しかし、冤罪の取り返しがつかないのは、他の刑罰においても同じである。日弁連が死刑の代替として提唱する「仮釈放なしの終身刑」も、取り返しのつかなさでいえば死刑と良い勝負である。

各種刑罰間で取り返しのつかなさのグラデーションがある中で、なぜ死刑だけが別個に扱われるべきなのか、説得的な論拠はない。冤罪論は一見それっぽく思えるが、どの刑罰に対しても妥当する批判を恣意的に死刑に対してのみ向けているにすぎず、「死刑は死刑だからダメなのだ」というある種のトートロジーになっている。

また、国家による殺人を認めるべきではないというものもある。しかし、国家による殺人が不可避であることは明白だ。他国に侵略されれば軍隊は生命のやりとりをするし、銃を乱射するテロリストがいれば警察は犯人を射殺する。

そうすると議論の土俵は、なぜ軍隊や警察による殺人は容認されるのに、司法による殺人は許されないのかという点に移ることになるが、これに関して説得的な論拠は見当たらない。

さらに、更生の余地を残すべきという見解もあるようだが、これを本気で言うのはさすがにナイーブすぎる。死刑が廃止になったとしても、従来死刑を科されていたであろう重罪人に代わりに科されるのは仮釈放なしの終身刑であり、いずれにしても社会復帰は想定されていない。

死刑を廃止するかどうかの議論は、更生可能性のない受刑者をどのように社会から隔離するか(生かしたまま隔離するか、殺してしまうか)の問題であり、ここで更生可能性を論ずるのはピントがずれている。

結局のところ、上記種々の死刑廃止論の背景には、死刑がなんとなく怖くて不快で野蛮だという感情論があり、それを冤罪論や人権論で包んでいるだけなのだろう。

しかしそれでも、私が死刑制度を廃止すべきと考えているのは、死刑制度の存置によって西側社会の中で日本が野蛮で人権的に遅れた国だと「思われる」ことのデメリットが大きすぎるからだ。

欧米とは地理的にも歴史的にも文化的にも程遠い日本が西側社会の一員としてやっていけているのは、民主主義・自由主義という理念をこれらの国々と共有していることによる。

ただし、ここでいう民主主義・自由主義というのは、西欧の(特に上流階層の)価値観において「なんとなく野蛮ではない」ことの言い換えである点に注意が必要である。民主的過程を経ていても、個人の権利を毀損していなくても、彼らの感覚で「野蛮」なのであれば、反民主主義・反自由主義の烙印を押されてしまう。

そして死刑制度は、まさに彼らが「野蛮」だと感じるポイントを強烈に刺激する。上述の通り、死刑制度が受刑者の人権を侵害するというのは詭弁でしかないのだが、西欧的価値観において「野蛮」なのであれば、それは自由主義とは相容れないものと評されるのである。

したがって、日本が死刑制度を存置することは、西側社会において重要な理念を共有しないというメッセージとなり、長期的に見れば日本の国際的な発言力やソフトパワーを低下させかねない。

近年、欧米の人権思想は先鋭化の一途を辿っており、正気とは思えない域に達している。それでも彼らの価値観が西側社会の中核をなしていること、日本がそこに属していることは変わらない。ある制度を維持することが理念の不共有という誤ったメッセージになっていないか、これまで以上に慎重に検討する必要がある。

狭隘な価値観に染まった人権派気取りの言うことをハイハイ聞くのは腹立たしいこと極まりないが、文化も地理も歴史も欧米とは異なる極東アジアの島国が西側社会の一員としてやっていくためには、Wokeしたフリをすることも処世術の一つとして受け入れるべきなのだろう。


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