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割り切りと思い込み

司法試験の合格体験記といえば「一日10時間勉強しました!過去問3周しました!そしたら受かりました!」みたいなぶっとんだ話をよく見かけるが、そりゃそれだけやれば受かることくらい誰でもわかるだろ、1+1=2だろ、と思ってしまう。私はそれほどの時間的・精神的・体力的余裕を持ち合わせていなかったので、どうしてもそういう苦労話をひねくれた目で見てしまう。ただ、頑張れない側の人間なりに、限られたリソースの中で効率良く知的好奇心を失わずに学習を進められる方法を洗練させてきた自信はある。なのでその工夫をまとめた怠惰な人向けの合格体験記を書こうと思っているが、まだ着手していない(怠惰)。 →書きました。(9月15日追記)

いつものように情報収集用のTwitterアカウントで司法試験について調べていると、次のようなツイートが流れてきた。

確かにこの傾向はありそうだ。しかし、だからといって今の予備校の指導が間違っているわけではないと思う。時代が進み色々な情報がオープンになった結果、実は司法試験が暗記力と書き方のテクニック勝負であることが露呈したにすぎない。予備校はその性質を的確に捉え、合格までの道のりを正しく整備しているだけだ。予備校の教育を小手先だと論難するならば、それは司法試験が小手先の試験であることの自白に等しい。「大人の試験」「考える試験」などといった煙に巻くような言い回しの方が教育的文脈では不誠実だ。

これは法学の性質と密接に関連している。法律とは道徳や情緒に規範の皮をかぶせたものだ。本質的に非論理である道徳や情緒を、あたかも論理であるかのように語って民衆を納得させるのが法律なのだ。そのため、法律を習得するためには、ある程度深めたところで論理を諦め、その穴をレトリックや法理論(という名の理論に似た何か)で埋めるしかない。この意味で、司法試験という法律的文章を書く試験が暗記力と文章力の勝負になってしまうのは必然ともいえる。

もちろん、高度に体系化された法学において、情報の階層化・構造化は欠かせない。ただ、法理論や論証の細かい点についてまで「どのような論理構造になっているのか」を探り出すと泥沼にはまってしまう。原則として「何を知っていればよいのか」(=知識)「どのように書けばよいのか」(=書き方)という視点で見ていくべきだ。少々過激ではあるが、「論理はオマケ」くらいに思っておいた方がスムーズに学習が進む。

それを踏まえたうえで、将来のために全てを割り切ってテクニックの習得に励むか、しょせん暗記とレトリックを「うおおお!俺はすごいことをやってるんだぞ!」と盛大に勘違いするかじゃないと、モチベーションが続かないんじゃないかな。割り切るか、思い込むか。小さいころから弁護士が夢でした!大一からバリバリ伊藤塾通ってます!みたいなピュアでタフな人ならばその思い込みを維持することができるのかもしれないが、ピュアでもタフでもない中途半端な人たちはもう割り切るしかないのだろう。

まさに、この方が訂正している通りである。”法律の論述試験に順応できない”のは、考える力が欠けているからではなく書く力が足りないからだ。文章力は決して論理的思考力とイコールではない。純粋な論理操作の話をするならば、東大文系入試の数学の方が余程「考える力」を要した。司法試験を「考える試験」と評価することは、不正確であるだけでなく、割り切れずに浪数を重ねる受験生を生む原因にもなる。

予備試験合格者の司法試験合格率が9割を超えたようだが、これは多くの予備試験合格者が過酷な予備対策の過程で「割り切った」からではないだろうか。実際、私も予備試験のお陰で割り切れたみたいなところはある。

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