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名文today_87/『点・線・面』



メタボリズムの失敗の原因は、新陳代謝の単位が大きすぎたことだというのが、生物学者の福岡伸一と僕が話し合った結論である。カプセルの付け替えは、生物でいえば臓器の取り替えのような大げさなものである。自然界の生物は臓器を交換しながら新陳代謝したりはしない。細胞という小さな点を少しずつ交換しながら、ゆるやかにメタボリズムを続けていくのが生物であると、福岡は指摘する。福岡が言うように、生命とは流れであり、あらゆるものが流れながら、動的均衡を達成しているというのが、現代の生物学が獲得した生命観なのである。

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さらに、瓦の取り付け方を変化させ、ひとつひとつの瓦の先端の位置をデコボコさせた。そうすることで、点の印象がさらに強まった。小さくて独立した点が、ランダムに集積し、ひとつの雲のような、霞のような曖昧なスクリーンを構成するのである。バラツキがあり、汚れがあり、傷みがあり、デコボコしているということは、それだけ点が自由であり、点がより点らしいということでもある。点をより自由な存在として、解放してやろうと考えるならば、汚れを歓迎し、傷みを楽しまなければならない。それは、建築ができた後についてくる、長く、予想のつかない時間に対して、開かれた建築を作るということである。完成した後に、様々に汚れ、傷んだとしても、最初からバラついた点は、エイジングを許容し、飲み込んでくれる。きれいで、整然としすぎた建築は、汚れを許容しない。現代の日本建築は、その不寛容な方向に向かって進化し、その結果、日本の都市は汚れを許容しない、居心地の悪い環境となってしまった。

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クレルクが農具にインスピレーションを得てデザインした木製の椅子を今見ると、そこには工業化の論理には収まりきれない人間の論理、身体の論理が息づいていることを発見することができる。椅子の肘掛けに使われているロープは、美しさとは無関係に、一見、だらっと垂れているように見えるが、そこにひとたび腕を載せると、ロープは身体を支えてピンと延び、ロープという生きた線と、身体という生きた物体とが、生き生きと会話を始めるのである。

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もちろんそれもひとつの解答であるには違いないのだが、断熱材を厚くすればするほど、屋根にパネルを載せれば載せるほど、建築は分厚く、重装備になる。どんどん大げさなものになってしまう。北海道の自然の原野に暮らすのには大げさすぎて、それが未来の家の姿とは到底思えなかった。地球環境を考えた結果が、そのような大げさで暑苦しいものに向かうというのは、直感的に、身体的に受け入れがたかった。(中略)厳しい自然の中だからこそ、テントのような軽やかな建築の中で、その自然と一体となって暮らしたいのである。北海道だからこそ、テントで暮らさなければいけないのである。

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そこで、引っ張り材(ワイヤー)と圧縮材(棒)とをうまく組み合わせれば、最も効率性の高い建築ができることを、フラーは発見して、その構造システムのことをテンセグリティ構造と呼んだ。テンション(引っ張り)を活用して到達する、インテグリティ(統合)システムなので、彼はそれをテンセグリティと命名したのである。(中略)石のような点を積み上げていくやり方だと、どうしても重たい建築になってしまうだが、線を使い、しかも線の張力を使うという発想の転換だけで、このように軽やかな構造体ができるのである。テンセグリティが建築の歴史を塗り変えるような予感があった。

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細胞は孤立した点ではなく、面の引っ張り力、面の中に潜んでいた糸の引っ張り力を媒介として、相互につながりあい、重力のある世界の中で形を変え、重力と折り合いをつけていたのである。フラーが未来の構造システムとして提唱したテンセグリティとは、そもそも、生物の基本原理でもあったのである。再びゼンパーとロジエの喩えを用いれば、生物は骨(フレーム)を構造とすると考えていたロジエ主義的生物観に代わって、点・線・面がネットワーク的にも統合したものが生物の体を支えているという、ゼンパー主義的生物観へと、生物学も向かっている。

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『点・線・面』/ 隈研吾 / 2020年 / 岩波書店

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