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フェルメール『窓辺で手紙を読む女』を見て 絵画考古学のおもしろさ 

先日、大阪で開催中の「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」を見に行った。
17世紀オランダ絵画とあるものの、主役は一点、フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」である。

当初、背景の壁にはキューピッドの絵があったことはX線調査によりわかっていた。フェルメール自身が塗りつぶしていたと思われていたため、長年そのままキューピッド無しの絵が飾られていたが、近年の絵の修復の際、キューピッドを塗りつぶしたのはフェルメールではないことが判明した。

キューピッドを復元させ、フェルメールが当初描いたとおりの絵とすること、それが今回の展覧会の目玉である。

公式サイト
https://www.ktv.jp/event/dresden-vermeer/

感想

修復後

↑これは、会場に飾られていたポスターで、見る角度により修復前後の両方が見られるというもの。

修復前

↑こちらが修復前。

絵を保護している塗料が劣化してくすんでいたため、これを除去するのが当初の修復の狙いだったと思われる。その過程で、キューピッドを隠したのはフェルメール本人ではないとわかった、と。

絵全体が鮮やかになっており、修復後の絵はすばらしかった。
比較のため、修復前の絵の模写が近くに飾られているのだけど、全く違う。
絵全体が輝いていた。

背景のキューピッドが出てきたことで、主役である女性が目立ちにくくなるか、というと全くそんなことはなかった。女性がより輝いており、鮮やかなカーテンや織物に囲まれていてなお、女性に視線が集まるようになっていた。
この輝きは、直接見ないとわからないことのひとつ。見に行って良かった。

変化に立ち会うことの幸運

背景のキューピッドの絵は「欺瞞」を象徴する仮面を踏みつけており、愛の象徴たるキューピッドと合わせ、手紙の内容がラブレターであることは以前から言われていた。
消されてはいるものの、キューピッドがある以上ラブレターだろう、と推測されていた。

今回の修復で、その推測がより強められることとなったのだけど、おもしろいのは、その変化に立ち会っていること。

1600年代半ばに描かれたこの絵は、350年もの間、キューピッドのいないままだった。この350年間に生きていた人たちは、誰もキューピッド有りの絵を見ていない。
たまたま生きている間に、修復後の、本来の絵を見られた幸運。

ラブレターであることがはっきりした、という意味の変化もとてもおもしろい。
描かれたのは350年も前なのに、最近その意味までもが変化する。
これがきっと、考古学の面白さなのだろう。

今後、フェルメールに限らず他の画家の絵も同じように、意味合いや見た目が変化するかもしれない。

真実の愛を保証するのは誰か

ふと思ったのは、キューピッドの絵の額縁の下端が、女性の頭の真後ろを通過していること。

キューピッドの絵の下端が女性の頭の後ろを通っている

主役たる女性を目立たせるなら、キューピッドをもっと上に配置すべきなのではないか。

キューピッドの位置を上に

↑こんな風に。

敢えて、下端が女性の頭の後ろを過ぎているのは、これは、女性の頭の中、女性が考えていること、心の中を表しているのかもしれない、と思った。

もしそうなら、意味する順番が変わってくる。
キューピッドが女性の頭の中の光景ではなく、象徴として示唆するだけであれば、順番としては、

  1. キューピッドが

  2. 手紙の内容を示唆する

となる。
しかし、キューピッドが女性の心の中の光景だとしたら、

  1. 手紙を読んだことで、

  2. 女性の心の中に、キューピッドが現れる

となる。

前者なら、キューピッドが、その恋愛が真実の愛であることを保証する。
後者なら、女性自身が「この恋愛は真実の愛だ」と感じていることになる。

もしかして騙されているのではないかという不安(=仮面)が、手紙を読むことで解消され、大丈夫だ騙されていないこの恋愛は成就する、と感じたのではないか。

これを主張するには、フェルメールや当時の人たちが、心は脳にあると思っていたかどうか、を確かめなくてはならない。
ヨーロッパにおいて、その時代脳解剖は行われていたようだけど、オランダにおいて、またフェルメール自身がどう思っていたかはわからない。当時の市民感覚はどうだったのか。
はっきり明かされるとは思われないけれど、これは、今後の個人的な課題。

復元は正しかったのか?

もうひとつ気になったのは、展覧会全体の雰囲気として、キューピッドを復元させるのは当然、という雰囲気が漂っていたこと。

キューピッドを隠していた絵の具がフェルメールの死後のものだった、従ってキューピッドを消したのはフェルメール自身ではない。だから、フェルメールの意図のとおりに復元する。
これがキューピッドの復活への理屈だと思われる。

展覧会では、フェルメールの死後、誰がキューピッドを消したかについては今後の研究とあった。
この人がやったかもしれない、という歴史ロマン的な想像はあったものの、現時点で、キューピッドを塗りつぶした人はわかっていない。もし判明すれば、さらなるロマンが生まれるかもしれない。

しかし、さて、本当にキューピッドを復元して良かったのだろうか?

例えばフェルメールが遺言書を残しており「あの絵は失敗だった。キューピッドは消すべきだった。後悔している。キューピッドを消してこそあの絵は完成する。だからどうか、キューピッドを消して欲しい」と信頼できる画家の友人に頼んでいたとしたらどうだろうか?

作業を施したのはフェルメール自身ではないにせよ、その意図はフェルメール自身によるものだったとしたら、果たして復元すべきや否や。

今回復元したのも、フェルメール自身の意図を推測して、現代の修復士が復元を行っている。実際に誰が復元したり絵を消したりするかは大きな問題にはなっておらず、作者の意図を尊重する、というのが大部分の人の意見、ということだろう。
だとしたら、そうだとしたら、信頼できる友人がフェルメール自身の意図により消していたとしたら――。

他にも、本人の意図ではなくても、有名な画家が手を加えていたとしたらどうだろうか。

フェルメールの同時代にはレンブラントがいる。
レンブラントの方が先に他界したようなのであり得ないけれど、例えばレンブラントのような有名な画家が(何かしらの理由で)フェルメールの意図によらずに手を加えていたら、貴重なコラボレーションということで更に価値が出るかもしれない。
そうしたときも、やはり作者の意図を尊重するのだろうか?

誤解のないように書いておくと「だから復元すべきではなかった」と言いたいのではない。
復元後の絵を見られるのは幸運なことだしとても良かった。
ただ、もし自分が復元する/しないの判断をする立場にあったら、とても怖いなと思ったのである。

フェルメールがそんな遺言を残していたなんて今更わかりようがない、とは言い切れない。今回だって350年ぶりにその(少なくとも制作時の)意図がわかったように、今後の絵画考古学で、どんな新発見が見つかるのか、誰にもわからないのだから。

これから見に行く人へ

『窓辺で手紙を読む女』は、最後の方に展示されている。

大阪会場は、後から戻って絵を見ることも許されている。
(係員の人に確認したし、絵を見る順番はないので空いている方から見て、と何度も案内していた)

会場に入ったら、『窓辺で手紙を読む女』に直行して見ることをおすすめする。
じっくり堪能したら、その後、戻って他の絵を見るのが良い。

ほとんどの人は、入口から順番に見るため最初の一部屋二部屋はとても混雑するし、フェルメールの絵を見るころにはへとへとになってしまう。また、後になればフェルメールの絵も混雑してしまう。

最初に直行すれば、人が少ないためじっくり見られる。

大阪の次は、宮城に行くようである。
宮城の会場がどのような展示方法かはわからないけれど、戻ってみることが可能なら、ぜひまずフェルメールの絵に直行を。

名角こま

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