一冊の本が私にかけた素敵な呪い
わたしには大好きな小説がある。そんなに有名な小説じゃないけど、何度も読み返したくなる、そして読み返すたびに感動して涙が溢れる。そんな素晴らしい体験をさせてくれた本だ。
「本田さんて、好きなことは何?」
10年ほど前、職場の上司と飲みに行くことになった。仕事の話をしながら、上司が突然聞いてきた。聞かれてちょっと困った。映画を見たり、旅行に行ったり、ドライブをしたり、好きなことはいろいろとある。でも、あらためて「好きなことは何?」って聞かれると、明確に答えが出てこない。う〜ん、なんだろう。私は迷いながら答えた。
「読書です」
たしかに本は読む。でも、たくさん読んだり、すごく好きってわけでもなかった。なんとなく、そう答えておけば良いかなって感覚だった。
すると上司はとてもうれしそうに
「ホントに! 自分も本が好きなんだ。中でも一番大好きな本があるんだよ。今度、職場に持っていくね。本当に面白くて……」
と語っていた。私はそこまででもないんだけどな。そう思いながらぼんやりと聞いていたが、上司の話は止まることなく、その本の魅力を語り続けていた。
次の日、職場に行くと朝から上司がその本を持ってきてくれた。お礼を言うと
「読み終わったら感想聞かせてね〜」
と満面の笑みで言われた。
その本のタイトルは『未必のマクベス』
初めて見た本だ。タイトルも聞いたことがない。本当に、そんなに面白いのかな?
私は半信半疑で、その日の夜から読み始めた。
I T企業で働く普通の男が、香港の子会社に出向となる。そこで、主人公は偶然出会った娼婦からシェイクスピアの『マクベス』と同じように予言を受ける。「あなたはいずれ王になる」
その予言通り、出向先の会社で突然社長になり、止むに止まれぬ理由で殺人を犯す。その後、逆に命を狙われることになる。情景が鮮やかに浮かぶ描写と魅力的な登場人物たちの葛藤。主人公の切ない恋。完全に引き込まれてあっという間に読み切ってしまった。
読み終わった次の日、上司に報告をすると
「今晩、また飲みに行こう」と誘われ、二人で飲みに行くことになった。
二人ともビールを注文して、ドリンクが到着する間もなく私達は語り始めた。
「いや、もう、なんか読み始めから、自分が実際に旅をしている感覚になりました!」
「そうだよね! 世界観がすごくてすぐ引き込まれちゃう。僕はもう、3回読んでるけど、毎回引き込まれちゃう」
「登場人物がみんな魅力的で。でも互いにいろんな背景を抱えていて。だんだん事件が大きくなって、どうしようもなくなっていくのがすごく苦しかったです」
「後半は読んでいてすごく面白いけど、苦しいよね」
途中でビールのジョッキが運ばれて来たのに、私達は乾杯もせずに語り続けていた。会話が一段落したときにはビールの泡はすっかりなくなっていた。
遅れて乾杯した後に上司がポツリと言った
「本田さんはこの本の魅力がわかる人と結婚した方が良いよ」
一瞬、意味がわからなかった。口説かれてるのかとも思った。でも、そんな様子ではない。そもそも上司は妻子持ちで、年も倍近く違う。ただ、その言葉に私はドキっとした。本を読んでいるときの興奮がまた蘇った気がした。
その後の会話はあまり覚えていない。最後にその本の主人公が好きなカクテル『キューバリブレ』を頼んだ。甘さの中にほろ苦さがある美味しいカクテルだった。私はカバンから本を取り出し、上司に渡した。
「素敵な体験でした。ありがとうございました」
数年後、私は人事異動で職場が変わった。多くの新しい仲間とも出会った。中でも帰り道が同じ方向の男性二人と仲良くなり、三人でよく飲みに行った。
そのうちの一人と二人で飲みに行くことになった。
「僕がよく行く店で良いですか?」そう言われて連れて行ってくれたのはオシャレなBARだった。その人は一人でよく来るそうだ。
「本田さんて、好きなことは何ですか?」
男性って二人になると好きなことを聞く習性があるのかしら。
「読書です」
私は以前よりも堂々と答えた。『未必のマクベス』を読んでから、同じような体験をしたくてたくさん本を読んだ。だから今は自信を持って、趣味は読書です! って言える。「そうなんですか! 僕も本が好きです」その人は歴史小説が好きで、司馬遼太郎や吉川英治の本をたくさん読んでいた。私は歴史書はほとんど読んだことがなかったが、興味はあったので聞いてみた。
「何かオススメはありますか?」
「司馬遼太郎だったら竜馬がゆく、吉川英治だったら三国志ですね」
その二つの魅力をいろいろと聞かせてもらったあと、竜馬がゆくを借りることになった。
「本田さんは、何かオススメの本ありますか?」
すぐに一冊の本が頭に浮かんだ。
「未必のマクベスって知ってますか?」
「いや、知りません」
「すごく好きな小説なんです」
「もし良かったら貸してもらえませんか?」
「実は借りて読んだので持っていないんですよね」
「そっか〜 残念です」
その人は、私がその本の魅力を語るとますます残念がっていた。
借りた『竜馬がゆく』はなかなか読み進めることができなかった。歴史小説があまり得意ではないのかもしれない。一週間で100ページも進まなかった。
ある日、仕事で少し嫌なことがあった帰り道、気晴らしにどこかで飲みたいと思ったが、一人で居酒屋に行くのもあまり気が進まなかった。そこで、先日連れて行ってもらったBARに行くことにした。
入り口の扉を開けると、竜馬を貸してくれた人がカウンターに座って、何か本を読んでいた。近づくと見覚えのある本だった。未必のマクベスだ。そうか、買ってくれたんだ。
私は嬉しくなって近づこうとした。そのとき、急に足が止まった。彼の頬に涙が流れていたのだ。それを見たら、急に心臓の鼓動が早くなり、体中が熱くなった。胸が苦しくなった私は、その人に気づかれないように、店員さんに頭を下げて店を出た。
店の外に出ても、本を読んでいた彼の姿が頭から離れなかった。本を読む彼の姿は美しかった。黙って座って本を読んでいるだけなのに、カッコいいと思った。
見た目がタイプだったわけじゃない。三人で飲んでいても、もう一人の男性の方がカッコいいと思っていた。二人で初めてBARに行ったときも、胸が高鳴るようなことは無かった。でも、今はもう彼の姿が頭から離れない。
「好きだ」
思わず口から出てしまった。なんでそう思ったのかわからない。でも、彼のことが好きになっていた。頭に蘇ったのはあのセリフだった。
「本田さんはこの本の魅力がわかる人と結婚した方が良いよ」
このセリフに私は呪いをかけられたのだろうか。そうかもしれない。それでもいい。自分が心から好きなものに感動してくれた人がいる。それが嬉しい。
後日、仕事の帰り道、その彼に話しかけらた。
「実はオススメされた未必のマクベス、買ったんです。それで、昨日読み終わってとても感動したんで、その話をしたいんですが良いですか?」
私たちは以前行ったBARに行くことにした。彼は席に着くなり
「こんなに面白い本を教えていただきありがとうございます!」
そうやって話し始めると、彼の口は止まらなかった。勢いよく話す彼の言葉にときおりうなずいたり、同意したりする。ただ、あのときの彼の涙が頭に浮かぶたびに胸が高鳴る。それを隠しつつ、私は平静を装って彼の話を聞いていた。
話が一段落したとき彼が言った。
「もっと本田さんが好きなものを知りたいです」
「じゃあ、今度ドライブしませんか?」
「え? ドライブですか?」
もしかして、彼もちょっとドキっとしたかな?
「私、運転好きなんです。どこか行きたいところありますか?」
「じゃあ、海に行きたいです」
「まだ、五月ですよ」
「海を見るのが好きなんです」
素敵だと思った。二人で並んで初夏の海を眺める。うん、素敵だ。
それから私達は、お互いの好きな場所、物、体験を共有していった。同じ映画を見て、同じタイミングで感動したりするとたまらなく愛おしなる。同じ料理を食べて、美味しいと思ったときに彼が
「美味い!」って言うと、ほっこりする。
いつしか付き合うようになった私達は、数年の交際を経て、先日、結婚した。
「本田さんはこの本の魅力がわかる人と結婚した方が良いよ」
素敵な呪いをかけた張本人にこの前、結婚の報告の電話をした。
「あれ? 俺そんなこと言ったっけ?」
おいおい、私の運命を変えたかもしれないんだぞ?
「でも未必のマクベスが好きな人ならきっと本田さんと合うよ。お幸せに」
私が大好きなことに感動する彼をこれからもたくさん見ていきたい。
いや、たくさん見られるに決まってる。
「しあわせ」
思わず口からこぼれた。
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