芹沢あさひが見た世界 ―― 【空と青とアイツ】に思う
芹沢あさひ登場からちょうど1周年となる2020年4月1日、あさひ2枚目のpSSRとなる【空と青とアイツ】が追加された。
今回のコミュの内容は、多くの人に「刺さった」のではないかと思う。
少なくとも自分にはめちゃくちゃ刺さった。
この記事は、いち芹沢あさひPとして、この【空と青とアイツ】のコミュについて、自分の感じたこと、考えたことをありのままに書いたものである。お付き合い頂けると幸いだ。
※この記事は芹沢あさひのコミュ全般に関する多数のネタバレを含みます
交われど、重ならぬもの
今回の【空と青とアイツ】のコミュには、これまでのコミュと決定的に異なる所があった。
それを語るために、まずはこれまでのあさひのコミュについて軽く触れたいと思う。
あさひをプロデュースする過程は、つねにあさひ自身のことを知ろうとする努力とともにあった。
芹沢あさひは、(外から見れば)いきなり突拍子もない行動をするし、(外から見れば)突飛な発想・思考回路を持っている女の子だ。
そんな彼女に対し、プロデューサーはこれまで、彼女の行動を制限するのではなく、あさひの思うがままに行動させ、それを隣で追うことで彼女の考え方を知り、読み解こうとしてきた。
暴走しそうな時、他人に迷惑がかかったりする時などは彼女を諫めることもあるが、なるべく彼女がやりたいことを尊重するようにした。
それに加え、必要な時は彼女のアシストをしてやる事で、彼女を自分の思う方へ導くのではなく、あさひが自ら納得できる方向・方法でアイドルとして成長できるように行動していた。
それが彼女が最も自然体でいられるやり方であったし、またそれが結果的に、元々高いポテンシャルを持つあさひをプロデュースするうえでの最適解でもあった。
そのようなプロデュースは、プロデューサーがあさひのことを常に知ろうとし、理解しようとしてきたからこそのものであろう。
あさひが何を考え、何を思うのか。それを常に観察し、理解していけるよう努めたことで、結果としてあさひが一番輝くことができるやり方で、彼女をプロデュースすることができたのだと思う。
そして、そのプロデュースを通して、プロデューサーはまた彼女の事をより多く知る事ができるのである。
一方のあさひにとっても、プロデューサーが常に隣で自分のことを知ろうとしてくれたことは、非常に嬉しいことであった。
あさひは自分のありのまま考えたことを話し、それをプロデューサーを共有することで、自らの考えをより深めていく。それにより、一人では達することができなかったであろう境地までたどり着くことができる。
何より、自らの思考を誰かと共有できるということ自体が、彼女にとっては大きな喜びであった。誰かと考えを通わせる楽しさを知ることで、もっともっと自分の思いを発信したくなる。それにより、自分の考えをより深化させることができる……そのサイクルを通して、あさひはよりアイドルに熱中し、またプロデューサーへの信頼を深めていくのである。
だが、こうしたプロデューサーとあさひのコミュニケーションを通して、実現できていなかった事が一つ存在する。
それは、「あさひの視点に立つ」ことだ。
あさひのことを知り、理解しようとしてきたプロデューサーの努力は、あくまで彼女を外から見ることに過ぎない。
どこまで行っても、プロデューサーはプロデューサーの視点から、そしてあさひはあさひの視点から物事を見ていることに変わりはない。プロデューサーがあさひの事を理解しようとしていても、それはあくまであさひの考え方をプロデューサー視点で考察することでしかないのだ。
このことは、1枚目のpSSR【ジャンプ!スタッグ!!】のコミュからも伺える。
True End「わたしの目、貴方の目」は、あさひに連れ出されたプロデューサーが、お互いのものの見方を知り、相互理解を深めていくという内容である。
このコミュは、「あさひの視点」を追ってきたプロデューサーに対し、あさひも「プロデューサーの視点」に興味を持ち、それを知ろうとしたという点で、プロデューサーとあさひの間に強い信頼が育まれていることを示すエピソードといえる。
だが、やはりこのコミュも、プロデューサーとあさひの視点は別であるという前提に立っている。
ものの見方が異なるからこそ、それらを交わし合うことで、人と人はよりお互いを理解できる……そう言えば聞こえはいいが、それは同時に「同じ目線で見る」ことを最初から諦めてしまうことでもある。
ふたりの視点は、交わる事はあっても、決して重なることはなかったのである。
ここまで書いてしまえば、読者の皆さんも大方察しはつくだろう。
そう、【空と青とアイツ】のコミュにおいて、プロデューサーは初めて、あさひと同じ視点に立つことができたのである。
前置きがずいぶんと長くなってしまったが、【空と青とアイツ】の話を始めよう。
視点の共有
今回のエピソードにおける、最も象徴的なコミュから話をしたい。
【空と青とアイツ】のコミュ②「(修学旅行みたいだ)」において、芹沢あさひはロケ先の土産物屋でバットを手に取る。
彼女にとってのそれは、未確認飛行物体を打ち返すため、という何とも可笑しなものだ。
しかし、そこでプロデューサーは、バットを買って意気揚々とするあさひに、自らの修学旅行の経験を重ね合わせる。
旅先で浮かれた気持ちになり、後から「なんでこんなもの買ったんだろう」となった経験は誰しもあるだろう。
あの時の自分のような、無邪気で純粋な気持ち。
プロデューサーは、今のあさひと同じような思いが、自分にもあったことに気づく。
旅行先、土産、バット――様々な偶然が重なりあい、これまで感じることのなかったあさひへの共感、「自分もあさひと同じ気持ちを持っていた」という気づきを、プロデューサーは得る。
この時、あさひの視点とプロデューサーの視点が、初めて重なったのである。
あさひと同じ視点という点においては、他のいくつかのコミュにも共通点がある。
コミュ①「(基地、なんだろうなぁ)」において、プロデューサーは倉庫にあさひが張った基地(簡易テント)に潜り込む。そこで想像を膨らませるあさひに絆され、倉庫を勝手に使うことを許可してしまう、という一幕がある。
また、コミュ④「(合掌。いただきます)」は、あさひが食べずに持って帰ってきた給食を、二人で一緒に食べる話だ。
いずれについても、間接的にではあるがあさひと同じ状況に身を置くという点は共通している。
コミュ④は日常の一幕のようなコミュであるが、これまでの類似のコミュはあさひの行動に振り回されて終わるという内容が多く、あさひの提案に乗るという今回のプロデューサーの行動はかなり珍しいものである。「あさひと同じ視点に立つ」というのが、今回のエピソードにおける重要なテーマであることが伺える。
「あさひの視点を理解する」から、「あさひと同じ視点に立つ」へ。
今回のエピソードを通じて、プロデューサーはあさひの気持ちを、より深い部分で知る事ができたのである。
「理解者」と「観察者」
少し話題を変えたい。
シャニマス世界の話ではなく、現実世界における我々の話。
自分が芹沢あさひPをやっていて常々感じるのは、「芹沢あさひに対する理解の解像度が、人によって違いすぎる」という事だ。
1年前の実装直後、自分は彼女について感じたことを記事にした。
今見返せば直したいところもあるが、出会いたての頃にしては我ながら結構いい内容が書けていると思う。
しかし、この記事で自分の書きたかったことが多くの人に伝わったのかというと、正直あまり自信がない。
ご存知の通り、芹沢あさひというアイドルはかなり尖ったキャラ造形をしている。
その性格や行動には彼女なりの理屈があってのものだが、彼女の行動を見て「なるほど」と思える人間は、この世に決して多くはないだろう。
芹沢あさひが単にムチャクチャやるだけの二次創作をしばしば見かけるが、個人的にはそれもある程度仕方ないと思うところはある。
たぶん多くの人から見れば、公式のあさひだって単にムチャクチャやってるようにしか見えないのだ。
彼女の行動に対し、それらを理解することができる、もしくは理解してあげたいと感じるのか。あるいは単に「面白いな」と思うだけに留まるのか。この二者には、結構な断絶があるように思う。
他人をラベリングするのはよくないと思うが、自分の中で前者を「理解者」、後者を「観察者」と呼んでいるので、以後そのように書く。
もちろん、これらはどちらがいいとか、どちらが上とかいうものではない。
そもそも優劣とかいう話ではないし、芹沢あさひPの中にも両者が存在する。
何より、この二者どちらに分かれるかは、個人の経験や生まれ持ったものに大きく依存してしまう。自分がどちらに属するか、選ぶことはできない。
ただ、どちらがより「沼」か、と問われれば、それは「理解者」の方であると思う。
なぜこんな話をしたか?
それは、【空と青とアイツ】のコミュが、多くの人を「観察者」から「理解者」の側に引き込むようなエピソードだったからだ。
何よりもまず、プロデューサーの心境の変化が顕著な例である。
先ほども述べたように、今回のコミュにおいて、プロデューサーは初めて、芹沢あさひの好奇心に対して共感を示す。
プロデューサーはもちろん日頃から彼女の事を可能な限り理解しようとしてきたわけだが、自らの修学旅行の思い出を通し、あさひと同じ視点に立つことで、あさひに対する理解をもう1段階深めることになる。
そして、それはコミュを見た多くの人にとっても同じであったことだろう。
プロデューサーがあさひに共感を示した瞬間は、おそらく多くの人にとって、あさひの気持ちを初めて「理解」できた瞬間だったのではないだろうか。
実はここに、今回のコミュにおける表現上の巧みな工夫が存在する。
先述のとおり、見ている人を直接あさひに共感させるのは非常に難しい。そこで今回のコミュでは、あえて「あさひに共感を覚えるプロデューサー」を描いた。
それによって、まずプレイヤーをプロデューサーに共感させ、そして間接的にプレイヤーをあさひに共感させているのだ。
表現技法としては比較的ベタなものではあるが、やろうと思って簡単にできるものではない。あさひを多くの人に「理解」させるための、非常に強力な手法であるといえる。
プレイヤーを「理解者」に引き込むための工夫はそれだけではない。
今回のコミュを通して、「基地」「修学旅行」「給食」のような、誰しもが経験のある、かつノスタルジーを感じるようなキーワードを多く取り入れていることも、重要な工夫の一つである。
プロデューサーは、あさひを学生時代の自分に重ね合わせることで、初めてあさひと同じ視点に立つことができた。
純粋な好奇心、衝動。それは誰しもが幼い頃持っていたものだ。
そして、大人になっていくにつれて、多くの人が失ってきたものでもある。
今回のコミュでは、あさひの持つ無邪気さが、彼女だけではなく、誰しもが持っていた普遍的なものであることを描いた。
そしてそのために、多くの人にとって「かつての自分」を思い起こさせるような、特徴的なキーワードをコミュ内に多く持ち込んだ。
そうすることで、幼き頃の自らを通して、多くの人に芹沢あさひを「理解」させることに成功しているのである。
(かつての自分を思い出すようなもの――人によっては、「紙飛行機」や「ローラーブレード」もそれに当たるかもしれない)
筆者自身、あさひに対しては「理解者」の側である。それゆえ、多くの人に「理解者」になって欲しい、とはつねづね思っていた。しかし、そのためにどうすれば良いか、方法がまるで浮かばなかった。
それだけに今回のコミュは、シャニマスの公式の「強さ」をまざまざと見せつけられたな、と感じた。やはりシャニマスは話を作るのがむちゃくちゃ上手いのだ。完全に負けたな、と思ってしまった。
誰のものでもない場所
ロケ先での出来事を通して、プロデューサーは初めてあさひと同じ視点に立った。
その後、彼はどうしたのか?最後にその話をしたい。
コミュ②「(修学旅行みたいだ)」においてプロデューサーは、あさひを突き動かしている好奇心が、あさひだけのものではなく、かつての自分にも存在していたものであることを知る。
しかしそれは同時に、そのような無邪気さを、今の自分は持っていないということでもある。いや、持てないといった方が正しいだろうか。
あさひは14歳で、自分はそれを見守る大人だ。
同じ気持ちになることはできても、中学生に戻る事はできない。あさひの持っている、かつて自分にもあったそれは、大人になるにつれ、いろんなものを守るために、すでに失ってしまったものだ。
今のあさひと同じような無邪気さを、今の自分はもう持つことができない。その残酷な事実に行き着いてしまい、プロデューサーは一種のノスタルジーに似た感慨に耽って、このコミュは終わる。
しかしこの気づきが、プロデューサーに気持ちの変化をもたらす。
あさひを見守る立場として、あさひの一番近くにいる者として、自分はどうあるべきなのか。
あさひの気持ちを知り、あさひとの違いを知ったことで、プロデューサーはその問いに対し、新たな答えへと至る。
True End 「(見つけような)」では、コミュを経てどんどん拡がってきたあさひの「基地」に対し、プロデューサーがあさひを諭し、結果としてあさひが基地を自主的に片付けることになる。
その時のプロデューサーの言葉が、まさにその「回答」を端的に表している。
どんなにあさひの事を守りたいと思っても、周りがそれを許してくれない事だってある。
いよいよどうしようもなくなった時には、あさひを見守る立場として、自分が彼女の世界を壊すことになってしまうかもしれない。
そうなる前に、彼女には伝えなければならない。ずっと今のままでいることは出来ないんだと。
一度でも彼女と同じ側に立った者として、これを口に出すことはとても辛いことであろう。
だが、それがあさひにとっての一番優しい選択肢であることも事実だ。
あさひが最も傷つかない方法を、プロデューサーは選んだ。
プロデューサーの言葉を受け、あさひは自ら基地を片付ける。
しかしそれは、自分の世界で生きることを諦めたわけではなかった。
あさひは旅に出た。
自分がありのままでいられる場所を探すために。
誰からも傷つけられず、また誰も傷つけずにいられる場所を見つけるために。
一度積んだものを崩すのは、誰にだって辛い。
しかしそれが、一番自分が傷つかずにいられる選択肢であることも、あさひには分かっていた。
あさひもまた、自分が一番傷つかない方法で、自分の世界を守ったのだ。
プロデューサーは、あさひの求める場所なんて本当はどこにも無いということも、きっと分かっている。
あさひもいつかは自分のように、世の中のありのままを受け入れて「大人」になる時が来てしまうのだろう。
だが、例えそうだったとしても。
プロデューサーは願う。あさひが、本当の自分の居場所を見つけられることを。
あさひが少しでも長く、あさひのままでいられるように。
おわりに
筆者個人としては、あさひが変わっていくことを、安易に「成長」と呼びたくない気持ちが強くある。それだけに、今回のエピソードはとても心に響いた。
プロデューサーが、あさひの世界を壊してしまうような選択肢を取らなかったこと。あさひが、周りのために自分を変えてしまうような選択肢を取らなかったこと。
そのどちらもが、自分にとってはとても嬉しかった。
これから長くシャニマスというコンテンツが続いていけば、いつかはあさひも「変わる」時がくるのだろう。
だが、もしそうなったとしても、きっとあさひは大事なものを失わず、「芹沢あさひ」のままでいてくれるのではないか。
今回のコミュを見終えて、そんな期待を今は抱いている。
改めて、あさひ登場1周年おめでとう。
生まれてきてくれて、ありがとう。
願わくば、ずっと君が、君のままでいられることを。