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無職日記#47 B級品たちのゆくえ

散歩:腰痛のため中止。

寒さで目が覚める朝がだんだん多くなってきた。
静まりかえった六畳間で吐き出す息は白く、手足の指先は軽く痺れ、慢性化してしまった腰痛がじわじわ痛み出すのを感じる。

布団を出て一番最初にやるのは、水を沸かしてコーヒーを淹れることだ。最近は朝食を用意するのも面倒で、つい飲み物だけで済ませてしまう。
これから始まる肉体労働のことを思えば腹に何も入れないのは得策ではないのだけれど、頭の回らない朝に私の主導権を握るのはいつだってものぐささなのだ。


数日前から、農業のバイトを再開した。
作業内容も植え付けから収穫・選別に変わり、また覚えることも増えたので毎日地道に土や野菜と遣り取りしている。

作業はとにかく寒い。海から吹きつけてくる風がいとも容易く防寒着を突き破ってきて痛みすら感じる。そんな中鼻水を垂らしながら作業をしているのだけれど、不思議と嫌ではない。
もちろん労働は不快なことこの上ないが、集中して自然に触れている間は余計なことに気を取られずに済むのでむしろリラックスしている。

何より、人間の相手をしなくていい。
それだけで大抵の作業に対して「やってればいつか終わる、私を追い立てるものはない」の気持ちで体をなんとか動かせるのだ。


午前中に収穫や草取り、午後には選別をする。
選別は手作業で行い、大きさや形によってそれぞれ個別に等級をつけて袋に詰めていく。
状態の良いものは地元のスーパーに、そうでないもの(B級品と呼ばれている)は少し価格を下げて無人販売所に送られる。人目に付く店に並べるものなので仕方がないのは理解できるのだけれど、形が多少歪だというだけで他と扱いが変わるのは少し納得がいかない。なんなら形の悪いものの方が量としてはお得だったりするのだ。

本質という点では大差のないものが見てくれの良し悪しで異なった、あるいは不当な扱いを受けるのはどこの世界でも同じなのだな、と思う。
自分とは関係のないところで生まれ使われている基準とやらで、行動や今後を左右されるのはとても辛い。
とはいえこれはやや感傷的かつ人間的なものの見方で、野菜はきっとそんなこと考えてすらいない、たぶん。

袋詰めされた野菜を載せたトラックが走り去るのを見送り、タイムカードに打刻して帰った。
あのB級品たちはちゃんと売れてくれているだろうか。
売れたところで私の懐に利益が滑り込んでくるわけではないのだけれど、なんとなくB級品の価値は店に並んでいるものと変わらないことを主張したくなった。


これから春先くらいまで収穫と選別を続けるらしい。
広い農地だからまだまだ時間がかかりそうだ。
自分が育てた、とはさすがに言えないけれど実際に手で触れた作物が大きくなっていくのを見ることができたのは素直に楽しい。

ずっと確認していなかったのだけれど、口座に給料が振り込まれていた。
なんか額が多いな、と思ったらそういえば冬はどこか旅に出ようと多めに働いていたのだった。
風邪をひいたり蓄膿症になったりで計画は残念ながら頓挫してしまったので、そのためのお金が余ってしまっている。

ずっと欲しかったコーヒー用のマグボトルでも買おうか。
それか、無人販売所でB級品の野菜を買い漁ってポトフを作るのも悪くない。

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