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3月の海辺から

散歩:12610歩。

波が引いていく。
砂浜と、長靴が少しだけ濡れた。
波打ち際から離れて、春の空から降る陽光に温められた流木に座る。
割引パンのストックを切らしてしまっていたので、直売所の総菜をいくつか買って食べていた。
光を反射する水面が眩しい。

遠くには漁船か旅客船か、とにかく大きい船が水平線をなぞるようにゆっくりと進んでいく。

この海辺には、相変わらず誰もいない。
鳥の声、波の音、風、そして薄暗い沖からは海鳴。
人工物よりも自然のものが多い空間。
本の余白が日光を弾くものだから読書もままならず、寝転がって目を瞑ったり、たまに空と海の間に引かれた線をぼけっと眺めながら過ごした。

こちらに引っ越してきてもう8ヶ月が経過した。ある程度の月日が経過するたびに、マイルストーンを設置するような感覚でその時に考えたことを書き残してきた。

必要に迫られたとはいえ、何となく選んで何となく住み始めた場所で半年以上暮らせているのはなんだか不思議なものである。逃げる理由もないから留まっているだけだろうと言われればそれまでなのだけれど。
よくやっている、とは流石に言えないし(実際、特に何かを頑張っている訳でもない)、こんな生活スタイルだから割と頻繁に不安になったりする。

主に「これからどうしようか」ということについて。

これといった不満の無い生活。
月に8万くらいあれば立ちゆく生活。
体は一応ちゃんと動いてくれていて、頭もたぶん回ってくれている。
精神的な部分には無視できない揺らぎがあるものの、それなりに慣れてそれなりに折り合いをつけられるようにもなった。

たぶん問題にしているのは「今」のことではない。
「今」はひとまず安全といえる地点に落ち着いてしまった。

どちらかというと、いつ終わるかも分からない寿命に向かう「それまで」にやや呆然としている。
何事もなければ向こう50年ほどは続くであろう「それまで」。
必要な分だけ働いて、散歩をして本を読んで生きるだけ。
決して嫌なわけではない。
ただ、心身を壊さずに続けていけるかどうか、何かのきっかけで心移りしてしまわないか、「それまで」のせいで「これまで」が損なわれてしまわないか。
そういうことに対して漠然とした不安を覚える。

あとは、どこかでまだきちんと自分の居場所を見つけられていないような気もする。居場所というのは物理的な意味での居場所だ。
この街のことは嫌いではない。
それなりに発展しているし、海にも湖にも山にも近いし、他県へのアクセスもいい。
ただそれは幅が広くて底の深い器の中にいるだけのような、つまり誰にとっても平均以上の好意的な感想を持たれる類の居場所なのだ。

私は、我儘だとは自分でも思っているけれど、自分のためだけに用意されたような場所が世界に一つくらいはあってもいいんじゃないかと思う。
収まりの良い窪みのような、たどり着いた瞬間に「ここだ!」と分かるような場所が。
あるいはそれは、マルクスの『自省録』で書かれたような、精神の平穏を得られていないが故の現実逃避じみた幻想なのかもしれない。でも困ったことに、哲学書はどうすればその精神の平穏とやらを手に入れられるのかは教えてくれない。

結局何も分からないまま、何ひとつ整理できないまま昼休憩は終わった。
いつかこの海辺とも別れる時が来るのだろうな、という確かな予感だけが残った。

暑すぎず、寒すぎず、風も砂も柔らかく、邪魔するものは何もない。
ずっとこうしていたいと思った。
でもそうはいかない。
生活がある。
それを組み立てるためのいくつかの煩雑で面倒な工程がある。
それは縮小させることはできても、ゼロにはならない。

ふと、肉体が邪魔だと考える。
つまるところ、それらの生活を組み立てるための工程というものは全て物質的な必要最低限の充足を目的として存在しているのであって、なぜ私がそんなことをしなければならないのかという問いに対しての答えは「そこに維持を要求する(されている)肉体があるから」以外にない。
シンプルな問い、シンプルな回答。
肉体の放棄。
あまりに幼稚な結末。
「なにもかも面倒なので死にます」とはいかない。

なんとかこう、先の不安なんて消し飛ぶくらい世界が面白くひっくり返らないものか。
私にできるのは仰向けになって顎を上げ、無理やり世界を逆さまにすることぐらいだった。

海が空に、空が海になった。



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