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汝、逃走の構えを解くなかれ

散歩:13684歩。

実家で一緒に暮らしていた猫のことを考えていた。
今みたいな寒い季節、膝の上に毛布を掛けて本を読んだりしていると、どこからか猫が現れて太ももの間の窪みに挟まるように潜り込んでくるのだ。
冷たくて静かな部屋で私は眠る猫を撫で、毛布越しに互いの体温を分け合っていた。
おおよそ褒めるべきところのない冬の中で、その瞬間だけは好ましいものだったように思う。

半ば逃げるように実家を出た。
今後あの場所に戻ることがあるのか、戻る気になるのかどうかは微妙なところではあるけれど、もうあの瞬間を猫と共有できないと思うと、それは少しばかり寂しい。
準備もそこそこに飛び出したものだから、色々と後悔のようなものがあることも否定できない。

後腐れのない逃走というのはとても難しい、と最近よく思う。

昨日今日と休日で、例によってダラダラしていたのだけれど、ふと本を読む手の指先が茶色っぽくなっていることに気づいた。正確には、指先のひびわれに土やら野菜の汁やらが入り込んで掘りたての玉ねぎみたいな配色になっていた。
何度か洗っても色はこびり付いたままで、どうやら色素が沈着してしまっているようだった。
ついでに前腕から手にかけて、あちこち切り傷ができていた。
生活に困ることはないので別にどうとも思わないが、半年くらい前までのパソコンと本ばかり触っていた軟弱な手がこうもボロボロになるのはどこか感慨深いものがある。

それは紛れもなく労働者の手だった。

色々と変わってしまったのだ。
逃げの一手で凌いできた人生も、どうやら変化からは逃げられないらしい。


このごろは収穫作業も忙しくなり、それに合わせて職場には新しいアルバイトの人が数名入ってきた。そのため日によっては結構な人数が倉庫にいるので、朝礼で集合した時なんかは中小企業くらいの規模感がある。

「人間関係が面倒なことにならないといいなぁ」と、よく話すバイトさんが私とふたりで作業をしている時にぽつりとこぼした。過去に人間関係がもとで退職したことがあるらしく、神経の摩耗を含んだ言い方だった。

こういう時、私は「嫌になったらパッと辞めて、別の農場に逃げちゃいましょう」みたいな、雑な逃走を提案しそうになる。

でも最近は相手の事情や心情も知らずにいきなり「逃げる」コマンドをおすすめすることに疑問を抱くようになった。可及的速やかな逃走は私にとっては有効な手段ではあるけれど、それが他の人にも同様に適用されるかどうかを私は本当の意味で確信することができないからだ。

他人の持つフレームの強度や範囲を決めつけて、個人的な「回答」を押し付けることほど身勝手で無責任なこともない。

そんなこともあって、私がこれまで持っていた[嫌なことがあった→即逃げ]の思考も[嫌なことがあった→逃げる準備をしつつも不快さの中に善を見出す努力をすべきだ]に形を変えた。なにかをいつも見落としているような気がしたからだ。そもそも自分にとって都合の悪い事象に片っ端から不快のレッテルを貼って拒絶するのは早計だしあまり良くない。

最終的に逃げることになったとしても(というか、だいたいいつも最後には逃げている)、せめてそれが敗走になってしまわないように抵抗してやろうという反骨精神らしきものがいつの間にか芽生えていた。

逃げてもいい、とは依然として思う。
生きていれば逃げる以外にどうしようもないことなんていくらでもある。
しかしその前に、見方を変えれば気づけることがあるかもしれない、ということも頭に入れておくと何かの役に立つ、と信じたい。

それでもダメだったら、なりふり構わず全力で逃げよう。
汝、逃走の構えを解くなかれ。

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