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檸檬と蹴球/余暇と効率

散歩:11034歩。

檸檬と蹴球

湖をぐるりと一周する散歩コースから少し離れて北に進むと、いかにもといった風情の閑静な住宅街がある。窓の多い大きな家に奇妙なエンブレムが取り付けられたやけに平べったい車、広い芝生の庭に血統書付きの犬。どれかひとつでも傷つけようものなら私の全財産が消し飛びそうだ。たとえそれが犬小屋であっても。

寒さで外出を控えているというのもあるのかもしれないけれど、いつ通ってもここはひどく静かだ。まるで音を生み出すことが禁止されている世界に迷い込んでしまったような気さえする。街路樹の葉擦れと風と私の足音。音と呼べるものはそれで全てだった。異様なくらい、人が居ない。平日とはいえ、暇な散歩者のひとりくらい居てもいいのに、と思う。歩くぶんには理想的なシチュエーションではあるのだけれど、どこか得体のしれない静寂だった。

どこからかサッカーボールが転がってきて、側溝の上で止まった。使い古されていて申し訳なさそうに少しばかり縮んでいたそれは、この高額納税者がうようよいそうな住宅街にはひどく場違いな物体に思えた。
ふと、このサッカーボールを立ち並ぶ家々に向かって蹴り込んだらどうなるか、という考えが頭をよぎった。蹴ったボールには実は爆弾が仕込まれていて、何の罪もない家にぶつかって大爆発を起こすのだ。
そうしたらさすがの金持ちも阿鼻叫喚の様子であのふざけた建物から飛び出てきて、わあわあ何事かをわめきながら私の散歩に彩を加えてくれるだろう。

そしたらきっと、私は春の準備をするだろう。

こんなことを考えるのは、昨日梶井基次郎の『檸檬』の朗読を聞きながら寝落ちしたせいだ。


余暇と効率

たいていの職場がそうであるように、少なくともひとりはとても仕事のできる人がいる。早くて正確で効率的で、どんなささいな業務を担当していても改善点を見つけて生産性を向上させる、経営者側からしたら絶対に手放したくないであろう人材だ。

私が今働いている農場にもそんな感じの人がいて、一緒に作業をしているとあまりに素早く仕事をこなすのでこちらだけ泥の中で動いているような気分になる。それだけなら別にいいのだけれど、その人は自分だけでなく同じ作業をしている人の効率も上昇させようとしてくる時があるのだ。

これは何というか、決して悪いことではないしこちらを困らせようとしてやっている訳ではないのだろうが、人にはどうしても向き不向きと個々の限界がある。誰かがある作業を効率化させたとしても、他の人が同じようなスピードと精確性をもってついていけるとは限らない。私はどちらかといえば鈍くさくてミスの多い方なので、「素早く正確に」は苦手である。
だからといって「作業の遅い私に合わせろ!」とは全く思わないし、効率化自体は利益拡大の点としては望ましいことであり、それは上からの評価にもつながるだろうからいちバイトの私が文句を言えることですらない。
ただ、できる範囲でできることはやっているのでそれ以上を要求されても困る、という話なのだ。ここには還暦を越えたおじいさんもいるし、主婦(夫)もいるし、半ニートだっている。みんなが同じように最大効率で稼働できるわけではない。

つまり、別に手は抜いてないですよ、という言い訳がしたいだけ。
あとは、時間給なのでどれだけ効率を上げようが貰えるお金は変わらないので、シンプルに効率化に対するモチベーションが無い(こちらが本音に近い)。

効率化して作業を早く終わらせたところで、空いた時間はきっと別の作業で埋められてしまうだろう。仕事を増やすための仕事はやらないと心に決めているので、立場が危うくならない限りはマイペースにしがみつく所存である。

これが例えば、効率化で生み出された時間はストーブを囲みながらコーヒーとクッキーでまったりする余暇に充てましょう、ということになればそこそこ頑張る価値がある、と思う。

なかなかそうはいかないのが社会なのだけれど。

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