作り出された風景、複数の意味【小説】

私はときどき、自分の頭がおかしいのではないかと感じる。というのも、私の書く文章が、まるで意味の伝わらないものであるように、自分自身、思われる時があるからだ。例えば、なぜアヒルが鳥なのか、なぜ雲の中に街があるのか、また、なぜ雲は手が届かないのか。こういった点が、ひょっとしたら読者にとっては不可解なことかもしれないのだ。私自身、いま、自分にとって非常に奇妙なことを書いている。前提と思っていたそれらが、ひょっとしたら読者と共有されていない可能性がある、と、自分でもまさかとは思いながら、不思議なことを書いている。しかし、こんなことを言い出したらきりがない。だって、森林は木の集合体であるとか、木には葉っぱがたくさんーーそれも数え切れないほどーー付いているだとか、森林には滑走路があるだとか、そんなことをいちいち掘り返して言及するハメになる。そんなことをしていたら、「この筆者はいま初めて地球にやってきたのだろうか?」と思われかねない。そんなことはない、私はずっと地球にいる。

辺り一面荒野である。ゴツゴツした、色気のない、荒涼とした大地、大陸だ。「庭を作る機械」はいまそこで、私の傍らで、庭を作っているのだが、どうもそれも、ゆくゆくはここを森林にするためのようなのである。いや、確証はない。「庭を作る機械」が庭を作るのと森林を作るのは別々のことかもしれない。この機械は、とにかく情報・説明が少なすぎる。

私は森林でいくつか洞窟を見つけ、そこにキノコが生えていることを知った。ところで、私の問題がまたもや現れた。もしかしたら読者は、私は何もない一面だだっぴろい荒野にいてーーその荒野では機械が森林を作ろうとしているかもしれないーー、にもかかわらず、私はいま森林でキノコの洞窟を見つけたと言ったことを不可解に思うかもしれない。まさかとは思うが、これを矛盾と思う読者が、中にはいるかもしれない。なんてことだ。そんなことを私が自身で疑ってみたこと自体、奇跡的ともいえる偶然だ。まあ、実際はただのおかしな疑いにすぎないのだろうが、念のため一応言及すると、キノコの洞窟のある森林は「実際の」森林である。私はいま物理的には森林にいる。荒野にいるのは、風景の話である。目に見えているのは荒野なのだということだ。私自身、不思議なことと思うが、実際にどうであるかと、目に見えているものがどうであるか、それらを別々のものと考え、別個に記述するしきたり、ないしは考え方もあるかもしれないと、いまふと思い付いたのだ。不思議なことだが、もしそんな変わったーー変わったと言ってしまって申し訳ない。しかし、私にはたいへん変わって見えるーー人がいるのなら、私が「物理的」なものごとと「視覚的」なものごとをごちゃまぜに記述していることが、おかしなことに見えるかもしれない、いや、見えるはずである。私が何のことを言っているかわからないだろうか? だとしたら、それは安心だ。それは私と同じ思考、慣習のなかにいるからだ。私もあなたも、実際と風景を別々のものと考えることはしないということだ。だからなにを言っているかわからないって? 大丈夫だ、これは、それをする人がいるかもしれず、その人から見たときそれは「実際と風景、ないしは、物理と視覚を別のものと考える」という言い方にきっとなるだろう、と私は予想して書いたに過ぎない。もしかしたらそんなことがあり得るかもしれない、そのような考えを持った人もいるかもしれないと私が独自に考えただけで、私はそのような考え方をしていない。あなたと同じである。

だから、私は森林でいくつかの洞窟を行ったり来たりして生活しているが、ーーもちろん、洞窟の中に入らなければ生活できないというわけではない。森林がすでに空を覆っているからだ。ーーそれが「実際」の話であって、「風景」は依然としてだだっぴろい荒野であり、「庭を作る機械」がそこで庭および森林を作ろうとしているということを、改めて言及して断る必要もないのであろう。さすがに、その必要がある読者というのは、私から見ても、ちょっと奇妙すぎる。ただ、もし本当にそんな人がいるのだとしたら、その人から見たら、私の文章で「森林」という言葉が二つの仕方で使われているように見えるのかもしれない、見えるに違いない。そのような言い方をすれば、それはその通りだ。それは例えば、「夢」という言葉が、睡眠中に体験するもう一つの人生としての意味と、目標や憧れを表す意味の二つの仕方で使われることと、同じだろう。特に注釈はしなくても、わかるはずである。「いま言っている『夢』は睡眠中のアレだよ」とか「今回のは『夢は叶う』の『夢』だよ」などと、いちいち断りはしないだろう。それと同じで、森林にも二つの意味がある(実際の森林と、大陸の荒野で機械が作るかもしれない森林である)。こんなの当たり前過ぎて、誰に向けた文章なのかわからなくなっている気がする。

洞窟には機械の残骸が多数散らばっている。それには大昔のものと、比較的新しいものがあって、それは主にコケなどの生え具合から判別できる。そういえば、もう一つの例を思いついた。英語の「read」、「読む」という意味の動詞は、過去形も同じ綴り・見た目の「read」でありながら、「リード」ではなく「レッド」と発音する。「リード」は現在形の発音・読み方である。ちょっと待って頂きたい。私の言った“どっちの”「read」が現在形でどっちが過去形かって? そりゃ、前者が現在形、後者が過去形だ。つまり、前者が「リード」で後者が「レッド」だ。そんなことわかるわけがないって? ああ、その意見は、言いたいことはよくわかる。私は少しおかしな言い方をしてしまった。実際の英文では“文脈で判断する”のだ。見た目は同じなのだから、文脈で判断するより他ない。そしてこれは、思いのほか簡単である。慣れてしまえば、どうということはない。信じられないだろうか? ふむ。とにかく、ようは、私が最初に言ったみたいに、「read」という言葉を単体で示して、これは「リード(現在形)」であるとか「レッド(過去形)」であるとか、そんな風に規定ないしは思考するのは、適切なことではなかった。つまり、単体で示されたら、それは「リード」でも「レッド」でもあり、あるというか、どっちでもいいというか、どっちかなわけではないというか、とにかく、そんな感じなのだ。森林、夢、アヒルなどの言葉にも、同様のことが言えるはずだ。アヒルには庭のアヒルと普通のアヒルがいるのだ。人間と一口に言っても、男や女など、さまざまである。人間という言葉で表されているものが全て同一人物なわけでは、さすがにないだろう。

洞窟で機械の残骸に生えているキノコを選別していたとき、「庭を作る機械」は庭を作り終えた旨を私に知らせた。その時の機械の表情は「スコーバー教授」だった。彼の名前を久し振りに見た。もう彼と何百年も何千年も会っていないかのように感じる。「庭を作る機械」がなぜ彼の名前を知っていたのか不思議だが、この機械は不思議でないことの方が少ないーー考えてみると、不思議でないことは皆無かもしれないーーので、「まあ、そんなものか」くらいにしか私は思わない。が、本当はもっと考えた方がいいのかもしれない。この機械はいったい何を原動力に稼働しているのだろうか? また、レバーを試しに操作してみるべきか? 私はなぜか、本能的に、それをしてはならないような気がしている。それを試しにしようかと考えると、非常に億劫に感じるのだ。機械の行動を変更してしまったら、なにか「変わってはいけないもの」までもが変わってしまうような気がする。それともこれは、私がただ消極的なだけだろうか。

洞窟のキノコは、庭に置くにはちょうどいい風貌をしていて、アヒルも沢山の言葉を見出しそうである。というのは私の主観であり、アヒルがキノコを好きという話は聞いたことがないので、単なる私のささやかなガーデニングにすぎない。私は機械の残骸をいくつか押しのけて、できるだけ奇妙な形のキノコを選んだ。洞窟の内側の装甲がむき出しになった部分に、年季を感じる。大昔にはここに都市があったのかもしれない。もしくは、戦争のための要塞か、それか、工業のための設備であろう。奥の鍵のかかった扉からは柔らかな光が漏れ、その光にはいくつもの見知った言葉があった。それらの言葉を懐かしみながら、私はキノコを大陸に持ち帰った。

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