偏屈者Aの嘆き

【偏屈者Aの嘆き】

文章を書くことは壁を作ることに似ている。あなたが文章を書けばそこに壁が生まれ、それに直面した私はそれに沿って歩くことしかできない。あなたの文章は「ここからは先へ進めません。先へ進みたかったら迂回うかいしてください。ここでは私が案内人として、あなたの手を引いていきます。さあ、気張らずに、安心して身をゆだねなさいな」と言って、私を横道に連れていこうとする。それは、道端で子供を誘拐ゆうかいしようとする詐欺師に似ている。「ワタシが君のホントのお父さんだよ。やっと会えたね。ああ、やっと会えた。ずっと、この日を待ちわびていた。ワタシこそが君のホントの親なのだ。いまの君の家にいる男の人と女の人は、君のお父さんとお母さんではない。彼らは嘘をついているのだ。彼らは、君が生まれてすぐに、私のもとから君を奪った。あのときから私の悲嘆に暮れる日々が始まった。でも、それも今日までだ。ようやく我が子に会えたのだ。さあ、一緒に家に帰ろう」この手の事件は実際に起きている。これにだまされるのは幼児に限らず、より巧妙でリアリティを帯びた誘い文句により、中学生が誘拐されたケースがある。私が文章を目にしたときに感じる危機感は、これと良く似ている。

文章は、いかなる文章であれ、私の手をいきなりつかんでくる。私が「なにをするんだッ!ヤメロッ!」と叫ぶ間もなく、ーーあるいは、怖くてそう口に出すこともできないままーー文章は私の手を強引に引っ張っていき、横道に向かって歩き出す。そんなとき、文章は、にこやかに、堂々と、自信ありげに私を誘惑することもあれば、悲嘆に暮れ、悲しみ、助けを乞うように、私の善意を利用して私をおびき寄せることもある。私は気をつけなければならない。警戒しなければならない。文章はさまざまな表情をして私を騙そうとする。何者も信用してはならない。

文章が私を誘拐しようとするとき、幸いにも、私は現実におけるいくつかの誘拐事件を知っているので、私は違和感に気づくことができる。違和感に気づき、文章が私を連れ込もうとする浅薄で短絡的な結論や、ただその筆者自身の人生を肯定するばかりの閉鎖された価値観、己の利益ばかりを追求する自己顕示欲がひけらかす愚にもつかぬ安直な逆説などから、私は身をかわすことができる。警戒心の強い私だから良い。これがもし、もっと経験の浅い若者であるならば、路上で詐欺師について行ってしまう子供さながらに、それらの文章がまともなものであるのだと思い込まされてしまうことだろう。恐ろしいことだ。

私は違和感に気づき、文章から差し伸べられた手を咄嗟とっさに払いのけることができる。冒頭で私は、文章を壁に例えた。差し伸べられた手に無防備にも引かれたままに進むことは、壁伝いに歩くことを意味する。しかし、その方向は本来私が進もうとした方向であるだろうか。いや、そんなことはない。全ての文章は私のことを、その文章の筆者が望む方向へと連れていこうとする。

私は感じるのだ。壁伝いに歩いている自分が、いつまでたっても自分の求めるものに近づかないでいることを。ただただ、その文章の筆者の望みの通りに、私が良いように扱われているのを。連れ込まれた僻地へきちで、文章の筆者は決まって私に笑いかける「あなたは話がわかるね。一緒に来て良かったでしょ?わたしたち、友達だね」違う。私はただ、あなたに合わせただけだ。物は試しと思い、騙されたと思ってあなたについて行き、そして実際に騙されたのだ。後悔した。来た道をいまから引き返すところだ。もう、二度とあなたについて行くことはない。

文章という壁に直面したとき、最善の策は、それを迂回することである。関わらないのが一番だ。でなければ、それを乗り越えるか、破壊するかになるだろう。そんなの、手間がかかって面倒くさい。第一、迷惑であろう。私は良心者である。人に挑戦せずに、無視する優しさがある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?