見出し画像

前置き~文章のリハビリ

諸般の事情で、毎日のように文章を書く期間があった。
約4年間、平日は毎日、夜になると文章を書いていた。
それが、そこそこの人数に見られたり見られなかったりする。
それなりに刺されば評価されるし、されないこともある。
それでいて、比較的自由に思っていること、その日一日考えていたこと、
ここ最近感じることなどを書くことができる場所だった。

そこから離れて、約4年。
適度な緊張感の中で毎日、それなりにまとまった量の文章を書き続ける習慣が一切なくなり、明らかに変化したことが2つ、それによって引き起こされた悪影響が1つある。

まず一つ目の変化として、長文が書けなくなった。

これは考えてみれば当然のことなのだが、巧拙を問わずひたすらに書き続けるという習慣がなくなった途端、想像していた以上に、驚くほど何も書けなくなってしまった。
正確に言えば、「長文を書くにあたって、自分にもっとも適した方法を忘れてしまった」ということになるだろうか。

文章の書き方なんて、突き詰めると人それぞれだろう。
無論、文法的に正しいとか誤字脱字をなくすとか、そういった最低限の作法は皆同じだろうが、いざ長文を書こうとしたときに持つべき心構えや、まとまった量の文を書ききるまでに必要な時間、思考方法などには、細かく個性が出ると思う。
その意味で、私なりの文章の書き方というものを完全に忘れてしまった結果、長文を書くことができなくなった。

次に二つ目、本が読めなくなった。

書くことをやめても読めはするだろう、と高をくくっていた。
もともと本を読むこと自体は好きだし、日本人全体の平均値よりは読書量が未だに多い方だとも思っている。

しかし、読むスピードは明らかに落ちた。読んだものが頭に入らなくなったし、残らなくもなった。

最近、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という本が人気だと聞く。未読なので確かなことは言えないが、どうやら仕事をしているせいで集中力や体力が削られ、読書をするエネルギが―枯渇するというのが、大体の主張であるようだ。

確かにこの説はうなずける。どう考えても何もしていない学生時代の方が読む量も多かったし、時間も体力も余っているなら本だって読めるだろうということは想像に難くない。

だが今の私にとって、話はそう単純ではない。何しろ4年前も今も変わらず、会社員として仕事をしている。そして、4年前に文章を毎日書き続けていた場所というのは何を隠そう当時の職場であり、そのうえ毎日終電上等のスーパーブラックベンチャー企業だったのだから、フルリモートで遅くとも夜9時には終業できる今の方が、どう考えても心身の余裕が多いはずなのだ。
にもかかわらず、今の方が本を(質と量、いずれの意味でも)読めていない自信がある。

そうして文章が書けなくなり、本が読めなくなった結果、体感的にであるが思考速度がガタ落ちした。

思考の質そのものも落ちたと感じるが、どちらかといえば体感比が大きいのは反射速度の方である。
人に何かを言われたとき、それに対する適切な応答が出来なくなった。
表現に詰まり、言葉が出てこない。よしんば言葉が見つかっても、応答を言語化、文章化することができない。できたとしても、その速度がとても遅い。

フルリモートという労働環境も手伝って、幸いのところ今業務に差支えはなく、身近な人との会話にもそこまで支障を来していない。今の環境にいる限りにおいては、誤魔化しながらやっていくことも可能ではあるだろう。

だが、それも時間の問題に違いない。
いずれ「脳機能そのものの衰え」として顕著になっていくはずだ。
生きている以上、いずれ衰えは来るのだけれど、現在30半ばの年齢で、まだその状態になりたくはない。
少なくとも、世の中について知り、理解し、学問をし、家の積読を消化して、旅行に行きたい。やりたいゲームも山積みである。要は、世界にはまだまだ楽しめていないものがあり、それらを楽しみ切る前に、頭が付いていかなくなることへの危機感がある。

無論すべてを経験することなどできないだろう、そんなことは分かっている。分かってはいるけれど、ぎりぎりまで挑みたいと思うし、それなりにやり切ったと感じる前に脳のリミットが来てしまうことが恐ろしいのだ。

ではそれに抗うにはどうすればいいか。
考えた中で、もっとも低コストに実現できる方法が、「長文を書く習慣を取り戻す」ことだった。

幸い、web上にはいくらでも書く場所があり、適度に人に見られる可能性があるため、以前の環境に近いと言って良い。見られても、見られなくてもいい。私はただ、人に見られる可能性のある場所で、そこそこの緊張感をもって、私のために自由に長文を書く場所が欲しかった。

と、偉そうに言っておきながら、一つ言い訳がましいことを最後に述べることにする。

前々から、web上の文章(に限らず、あらゆる形式のコンテンツ全般)には、「普通のものがない」と思っていた。
要するに、

  • 良くも悪くもない

  • 上手くもなく下手でもない

  • ネットの玩具になるような新奇性もない

  • 深遠なテーマ性があるわけでもない

などといった、何も考えていない普通の人間による、
呼吸に等しいほど当たり前の、普通のアウトプットがないことが気がかりであった。

分かりやすい例がゲームのプレイ動画だろう。
有名実況者のものならいざ知らず、何らかのプレイ動画を探すと見つかるのは、大抵バグか攻略かスーパープレイではないだろうか。
多くのプレイヤーが直面しているであろう、驚きも何もない失敗を無限に繰り返している様が、かかった実時間通りの尺で投稿されている動画を見たことがあるだろうか。あの時間は、自分でプレイして体験しているから楽しいのであって、レアアイテムのドロップを狙って同じ敵を、それも大して上手くもない普通のプレイによって数百回倒す様を、横から実時間で見ていたって面白くもなんともないはずだ。
検索の仕方が悪いだけで、実際はたくさん存在するのかもしれないが、
各種レコメンドエンジンが私をそのような普通のコンテンツに到達することを許さない。それを投稿者も分かっているのか、音割れも映像の乱れもなくきれいに編集された、それでいて面白い、もしくは為になるコンテンツが作成され、インプレッションの獲得競争が行われることになる。結果、普通の人間にとって何の参考にもならない素晴らしい成果だけが存在することになる。

愚痴が長くなってしまった。
ともかくも何がいいたいかというと、そうした環境に取り巻かれていると、「下手なものを出してはいけないのではないか」ということがどうしても気になってしまうのである。
本来は自由に書けるはずだし、書いてはいけないルールもないと頭では分かっている。おまけに、「私のために自由に長文を書く場所」などと偉そうに言ったうえで、そのことを明確に標榜しているnoteという場所を選んでおきながら、それでもなお体裁を気にしてしまう。残念なことだが、こればかりは性分なので致し方ない。

そこで考えた末、「文章のリハビリ」という言い訳を作ることにした。

これはただの長文ではなく、文章を書くリハビリである。
以前書く習慣があり、今書けなくなった。前ほどの状態には戻らないかもしれないが、完全に戻す必要はない、ただあの状態に少しでも近づけばいい。
リハビリなのだから、別に上手くなくても良い。多少は文章が良くなっていくかもしれないが、100%誰もが唸るような名文を書く必要は無い。
そもそも名文を書けるほど文章が達者な人間ではないのだから、100%の力を取り戻したところで高が知れている。でもそれでいい。

初期状態がオリンピックのメダリストではなく、そうなりたいとも思わないので、向上を目指すトレーニングなど必要ない。メダリストだって故障をしたらリハビリから始めるし、プロのトレーナーやドクターが付いて尚、100%には戻らないかもしれないのだから、私のような一般人がちょっと手を出すくらいだと、改善すらしなくたって別に不思議はない。
だがそれでいい。ただ普通のことを書くだけの習慣が欲しい。ただ安心して、思うままに書ければそれで十分だ。

だから、これは「リハビリ」である。
上手くもないし、上手くなっていく保証もない。そんなことを私自身が特に望んでいない。ただ習慣が手に入ればいい。
私は本が読みたい。多言語を含め、ただ楽しみのために色々なことを学び、知りたい。友達と遊び、話したい。色々な国へ旅行に行きたい。やっていないゲームを消化したい。

このまま何も手を打たないまま衰退するに任せているより、
多少なりともリハビリをした方が、もっと世の中を楽しいと思えるようになることだろう。
それを信じて、今日から文章のリハビリを始めていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?