上村元のひとりごと その212:ツィゴイネルワイゼン
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
寒くなると、肉まんが食べたくなります。
コンビニの、レジの脇に、ケースに入って、ほかほかと、並んでいるのを見ると、思わず、一つください。店員さんに、言いたくなるけれど。
持って帰る間に、湯気で、皮が、べたべたになってしまうのです。
水っぽい肉まんは、おいしさ半減なので、ここは我慢して、水餃子のスープだけを購入します。
少し遠回りして、スーパーに寄り、冷凍の、個包装の肉まんを選んで、のんびり帰宅します。ちょっとでも、常温に戻しておいた方が、加熱が早いので。
電子レンジのアイデンティティである、ちーん。高らかな電子音が、大の苦手なミントには、多少の騒音はものともしないロックナンバー、「飛行艇」にお守りをしてもらい、辛抱強く温めること、合計、十分弱。
熱々の昼ご飯が、できました。
ふかふかの皮をちぎって、小皿に敷き、水餃子をほぐして、具と混ぜ、スープにひたして、差し上げると、ふまっ。小さな黒い目を、らんらんと見開いて、あぐあぐ。めやーん。ご機嫌なミントです。
肉まんを、中華スープに染ませて食べると、至福、という言葉が浮かびます。
バゲットとカフェオレ、パンとポタージュの、アジアバージョンです。
できるだけ、肉まんは、乾いていた方がいいのです。そうでないと、せっかくのスープが、薄まってしまう。
フライパンで、軽く焦げ目をつけると、おこげみたいになって、さらに風味が増しますが、すぐに腹ぺこを訴える、かつ、長時間は待てない猫を抱えていては、なかなか。可能な方は、ぜひ、試してみてください。
片付けを終えて、炬燵にあたり、みににに。てぃるるる。気持ちよく喉を鳴らすミントを膝に、じっと耳を澄ませます。
なんにも聞こえません。
よかった。
ほっとして、今度こそ、くつろぎに足を伸ばします。
嬉しいな、楽しいな。最高だな。いえーい。
浮かれている時に、どこからともなく、「ツィゴイネルワイゼン」が響いてきたら、アウトです。
真っ青になって、棒立ちになり、がくがく震えていいレベルです。
そこで手を打たないと、必ずや、何かが起こります。事故とか、事件とか、命に関わる何かが。
実際に、起こったことはない。
でも、間違いなく、起こる。強烈なその直感が、とても、耐えきれない。
どうして、「ツィゴイネルワイゼン」なのかは、わかりません。
とても好きな曲なのです。バイオリンをメインに、ピアノと、管弦楽器で奏でられる、緩急自在の華やかさ。
しかし、どうしようもなく、血の匂いがする。
内田百閒の怪作、「サラサーテの盤」も、きっと、同じことを言っている。制作過程で、比喩的に、あるいは、現実に、人が死んでいる。
ロマの民が背負ってきた、虐げられた歴史が、そう思わせるのかもしれませんが、それだけではない。もっと、個人的な、具体的な、悲劇の手触りがある。あくまでも、推測に過ぎないけれど。
ぴーぷす、ぴーぷす。
元気な寝息を聞きながら、よくよく思い返してみると、「ツィゴイネルワイゼン」が鳴る時は、たいてい、書くことにおいて、慢心している時です。
生身がおびやかされるというよりは、物書き生命が危うい。このままうぬぼれていては、お前は、駄目になる。そんな警告に近い。
すみませんでした。どうぞ、お許しを。
目に見えない誰かに、死に物狂いで謝って、その時書いていた文章、全てを削除し、「ツィゴイネルワイゼン」が聞こえなくなるまで、ひたすら、待つ。そうすることで、僕はこれまで、どうにか生き延びてきました。
もしかしたら、サラサーテは、この曲で、作曲家として、超えてはいけないはずの一線を、あえて、超えたのかもしれません。
その線が何であったのか、今となっては、誰にもわからない。
わからないけれど、聞けば、感じられる。
これが、創作物の恐ろしいところで、何一つ、隠せないのです。
作り手が、何も言わなくても、作品が、語る。犯した罪も、対処の仕方も、何もかも。
唯一の救いは、いい部分も、ふんだんに、含まれているということ。
サラサーテが、決して、根っからの悪人ではなかったことは、「ツィゴイネルワイゼン」が、百年にわたって弾き継がれていることから、明確です。
できるなら、彼に、肉まんと中華スープを、食べさせてあげたかった。
ぽさぽさした、青緑色の毛皮を、撫でることもできたらよかった。
彼が無情に踏みつぶしたもの、それこそが、僕にとっての、大事なもの。
表現者として、とるべき道はいろいろあるけれど、自分に向いている、自分だけの道を歩かなくてはならないことだけは、肝に銘じておきます。それでは、また。
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