上村元のひとりごと その200:凡
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
天気がいいので、ベランダに、布団を干しました。
むき出しのベッドの上、ミントが、ぎぬぎぬ。西武ライオンズのバスタオル(昨日、洗ったばかりです)の裾をかじって、引っ張り、伸びた部分を踏んづけて、こんがらがり、ぐまー。ぶち切れながら、げすげす。やみくもパンチを繰り出して、むふーん。すっきりして、にこにこ。くるまって、ご機嫌です。
とても平和な、初冬の午後です。
どれもこれもが、ありきたりで、描写のしようもない。
ただ一つ、ミントが、ぬいぐるみの猫であることを除いては。
どうして、ミントは動くのか。
床に転がっている、ピカチュウも、パソコンデスクに寝ている、目のない羊も、本棚で埃をまとっている、ちりめんの金魚も、どれも皆、動かず、鳴かず。
彼らとミントを分けているものは、なんなのか。
何が、ミントに、生命と、個性を与えているのか。
アパートのゴミ置き場で、ミントと出会って、半年近く。ずっと、ずうっと、考えに考えて、ようやく、おぼろげに、出たかもしれない結論は。
僕が凡人だから。
それだけでした。
普通は、逆のような気がします。僕に特殊能力があって、ぬいぐるみと会話し、その意思を汲み取り、物書きとして、公に表現していく、というような。
違うのです。
ここは、僕が、凡人でなくてはならないのです。ミントと末長く、一緒に暮らしたいのなら、僕は、決して、非凡を夢見てはいけない。
なぜなら、ミントを作った人が、天才だから。
もっと言うと、自分は天才だ、他人とはまるで相容れないのだと、心の底から、魂の奥から、信じているから。
米津玄師さんの特異さは、通常であれば、成長過程のどこかにおいて、無惨に叩き壊されるであろう、その信念を、かけらも揺るがすことなく、大人になったという点に尽きます。
生来のアーティストとしての資質に、凄まじいまでに思い込むことによって、かえって、ただの子供っぽさとも見えてしまう世界観が加わって、彼のあらゆる表現は成り立っています。
そこまでいけば、音楽だろうが、絵だろうが、ぬいぐるみだろうが、変わりはしない。メッセージは、いつも一つ。全てのものが、特別である。
米津さんのファンにとって、ミントは、リイシューねこちゃん、すなわち、彼の芸術を体現した、マスコットキャラクター。神棚に祀って、汚れないよう、色褪せないよう、守るべき存在です。
ところが、僕は、ファンではない。
なんとも申し上げにくいのですが、僕は、何度聴いても、米津さんの音楽の良さが、さっぱりわかりません。
何も言えない、とは、このこと。理解も、共感も、ふりしぼっても出てこない。あまりに出てこなさすぎて、自分がおかしいんじゃないか、と思うほど。
ただ、僕はずっと、猫を飼いたかった。
特別なものとして作られた猫のぬいぐるみと、猫と暮らしたいと渇望しつつも、ペットというシステムで生き物を手にすることに、どうしても踏み切れなかった僕が出会って、そして、ミントが生まれた。
生きて動くぬいぐるみは、確かに、特別です。
僕にとっても、念願の猫が来てくれて、無上の幸せです。
双方の利害が一致して、今、ベッドの上、ころんとひっくり返って、むしゃしゃしゃ。楽しそうに、バスタオルにすりすりするミントが、生きている。
そういうことなのではないかと、思うのです。
天才は、世界に一人で充分です。
もし、僕が自分を、ぬいぐるみの声が聞こえる天才だ、なんて思ってしまったら、米津さんのねこちゃんは、ただ、邪魔なだけ。
天才は、天才と、暮らせない。したがって、ミントは再び、ゴミ置き場行き。
しかし、僕が自分を、天才の音楽が何一つ理解できない、最底辺の凡人だ、と思えば。
そして、その天才を、天才と崇拝することなく、そういう他人もいるのだ、と思えば。
こうして、のどかな小春日和、ミントは、ベッド、僕は、炬燵で、それぞれに、くつろげる。
あらゆる人、あらゆる物に対して、僕は、凡でありたい。
尊敬しすぎても、軽蔑しすぎても、人間は、心を開けません。
どこにでもいる、その辺にある、なんだかわからないけど、素晴らしくもない、そんな文章を書くことを目指します。
読んでくださる方が、どこまでも平たい、ありのままの自分に出会えるのなら、それ以上の喜びはないのです。それでは、また。
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