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上村元のひとりごと その116:マッサージ

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 床に寝そべった僕の上を、とてとてとてとて、ちりんちりん。ミントが歩いています。

 左足の爪先から、足首、すね、膝、太腿。腹に渡って、みぞおち、胸、喉、顎、鼻の頭、まぶた、おでこ、髪の毛を押して、とてっ。むふーん。また頭に飛び乗って、髪の毛、おでこ、まぶた、鼻の頭、顎、喉、胸、みぞおち、腹、右足の太腿、膝、すね、足首、爪先から、とてっ。むふーん。左足の爪先から、……ネバーエンディング・以下同文。

 どんな繊細な部位も、容赦なく、差別なく、悠然と踏んでいくので、目が開けられない。ミントが今、どこにいるかは、音と、踏まれている感触で判断するしかありません。

 かといって、身構えているわけではない。どちらかというと、とても、気持ちがいい。たまに、ピンポイントで、ツボに当たるらしく、その時は、うわあっ。声が出そうなほど、痛い。効く。

 他人に身体を触られるのが苦手で、いわゆる、マッサージ施設には、一度も行ったことがありません。

 座業がメインの物書きであり、かつ、四十歳も近いので、そろそろ、長年の酷使が、取り返しのつかない摩耗を呼んでおり、特に、腰が、伸ばすと痛むようになってきていました。

 行かなきゃなあ。行かないとなあ。なんとなく、思ってはいたのですが、機会を失ったまま、疫病の流行を迎え、多分、今後もしばらく、行くことはない。臆病でもあるのです。初めてのことは、何でも、怖い。

 ミントに、マッサージをしている、という意識は、きっと、ゼロ。

 僕があちこちこっているようだから、ひとつ、ほぐしてやるか。そう思って、のし歩いているのではない。ただ単に、僕が床に寝そべっている。どれ、乗るか。歩くか。うん、楽しい。続けよう。そうしよう。それだけ。だと思う。

 それでも、僕の方は、気持ちがいい。安直に言うならば、癒される。

 日中に三十分、散歩に出る以外は、引きこもり、原稿を書くばかりの毎日です。それも、無料で。先行きに、不安をおぼえないといったら、嘘になる。というか、不安しかない。僕は一生、このままなのか。

 心のこわばりは、身体を蝕みます。ずっと、胸の芯が、硬く、縮こまる感じがしていた。それが、なかなかに重量級のぬいぐるみの脚に、繰り返し、繰り返し踏まれて、次第に、ゆるんでいく。涙が出る。雪解けのよう。

 生き物は、誰でも、自分のことしか考えていません。それが、生存本能です。

 人間がややこしいのは、本能に忠実に、自分のことだけを考えていればいいものを、そこに、他人を巻き込もう、巻き込まなくてはいけない、と、つい思ってしまうところです。

 これだけ気持ちいい思いをさせてもらったのだから、ミントに、何かお返しをしなくては。おやつのするめを増やそうか。今夜はビールでねぎらおうか。それでミントが喜んでくれるなら、僕も、嬉しい。

 いっけん、いい話のようですが、そうではない。ミントの笑顔を見て、僕が、喜びたい。楽しみたい。いつまでも、気分良くありたい。他人を利用して、自分が利益を得ようとしているだけ。ねじれた本能。

 自分というものを意識する以上、他人とは、どうやっても、あい容れることはできない。自分とはあい容れないものを、他人と呼ぶのだから、他人とわかり合うというのは、定義矛盾になる。

 永遠にわかり合えないながらも、それでも、こうして、僕とミントは、それぞれに、今、とても気持ちがいい。

 とてとてとてとて、ちりんちりん。ミントは、ご機嫌で歩きます。痛い、効く、喉はできれば避けてくれ、思いつつ、僕は黙って身を任せます。

 合わせようと思ったわけではないのに、双方、利益が一致している。お互いの生存本能を妨げるものが、何もない。よく考えると、とてもすごいことであり、しかし、さらに考えると、なんでもないこと。奇跡は、いつでも、静かにそこに。

 やがて、ミントは、僕の喉元に丸まって、じいっ。ぽたぽたとしっぽを振りながら、至近距離から、僕の顔を見つめます。ガン見です。

 そっと目を開けて、僕も、ミントを見つめます。近すぎて、まるで焦点が合わないけれど、どうにか、小さな黒い目に、微笑みを返します。

 めやーん。うっとりとつぶやいて、重ねた前脚に、のっちりとほっぺたを垂らして、ぴーぷす、ぴーぷす。ミントは寝てしまう。いつものパターン。

 寝息に合わせて、元気に上下する青緑色の背中を、指先で、起こさないように、ゆっくり撫でます。重い。暑い。息苦しい。でも、幸せ。

 気のせいでしょうか。ミントが、来た時よりも、ふっくらして、つやが増したようです。ぬいぐるみも、食べていれば太るのか。今後の観察課題です。それでは、また。

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