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上村元のひとりごと その30:午前四時

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 夢を見て、うなされて、飛び起きる。

 不安に苛まれた時の、定型表現かと思っていましたが、まさか、本当に、自分がそうなるとは。

 ストーリーのない、思考の断片のようなものが、詰め詰めに詰まって、押し寄せて、息が苦しくなって、目を開けました。目覚まし時計を見ると、午前四時。中途半端な時間です。

 失業したことが、これほど精神的な負担になるなど、想像もできなかった。当座の生活費は確保できている僕でさえ、こうなのだから、所持金も乏しい方や、養うべき家族を抱えている方の苦しみは、いかばかりか。

 生活のそのものは、休業中と何ら変わらないのに、戻るべき職場がなくなったというだけで、たちまち心が乱れる。お金の問題だけではなく、人間に共通の、働かないことに対する罪悪感が顔を出す。

 働かないこと、すなわち、他人と関わらないこと。

 疫病が流行していなくても、他人との接触は、時に厄介で、面倒で、神経がすり減る行為です。

 それでも、労働の本来の目的とは、他人の手助けをすることにより、自分も利益を得ることにある。支えるべき他人がいなくては、自分もやがて、立ちゆかなくなる。深いところでそれを知っているから、職を失うと、意識する、しないにかかわらず、誰でもひどく怖くなる。

 ただ、ここに、僕の職業である、物書きの特殊性が組み込まれると、話は少し、複雑になります。

 文章を書くこと自体には、生身の仕事相手は、必要ありません。僕が、パソコンに向かい、キーボードを打って、しかるべき文字列を配置していくだけ。依頼された原稿であろうが、自発的な記述であろうが、やっていることは、同じ。

 その意味で、僕は、実は、全く他人と触れ合わなくても、本来の職務を遂行できる。インターネット上で自作を発表することが、いとも簡単になった昨今は、よりいっそうのこと。

 しかし。文章を書くことで、生活費を得なくてはならない、となると、がぜん、切迫感が増してきます。

 これまで、僕には、幸いなことに、書いたものを掲載してくれる雑誌があった。決して高額ではないが、継続的に対価も支払われ、僕が一人、慎ましく生きていくには、何の問題もなかった。

 それが、ある日、急に失われてしまった。フリーランスという選択肢を、僕は、ここに至るまで、何一つ考慮に入れていなかった。

 現在、僕は、37歳。チャンスとばかりに走り出すには、年を取りすぎ、丸投げして生活保護に頼るには、あまりに若すぎる。

 お察しの通り、派手で早熟な才能もなく、かと言って、なまじ、ライターとして経験を積んでいるから、完全な素人でもない。あらゆる意味で、午前四時、実に中途半端な自分を、いったい、僕は、どうしたら。

 ベッドに寝そべったまま、本棚を見上げ、小説を書くことについて語った、村上春樹氏の著作群を見つめる。

 いや、駄目だ。ここで、村上氏に、あるいは、他の大成した文筆家に頼っては、何の意味もない。物書きは、それぞれ、自分で、自分の文章を、作っていかなくてはならない。

 僕は、これから、僕個人の責任において、新しい言葉を獲得する。そして、出来上がった文章を、不特定多数の方々に読んでいただき、報酬として、我が身を養う金銭を頂戴する。

 そうしなければならない。なぜだかはわからないが、方向性だけは、はっきりと決まっている。物書きとしての本能、としか言いようがない。

 それでは、何を書くのか?

 この上なくありきたりなその疑問が、この下ない愚問であることもまた、物書きとしての僕には、はっきりとわかっている。

 笑止だね。書くんだよ。とにかく、書く。

 出来上がった文章が、どのジャンルに分類されるのか。そんなことは、書き手にとって、知ったことではない。

 書き手が、文章において、十全に己を発揮すれば、必ずや、読み手はつく。逆に言うと、書き手が萎縮しているうちは、誰一人、身銭を切ってはくれない。

 捨てなさい。自分を縛る、安心という鎖を。中途半端にとどまりたい、愛すべき怠惰を。

 巨額の富を得るか、極貧のうちに死ぬか。そんなことも、書き手にとって、知ったことではない。

 書け、上村元。生きていようと、死んでいようと、お前が、お前である限り。

 自分のものではない、でも、間違いなく自分のものでしかない、そんな声にうなずいて(うなずかない、という選択肢も、やはりない)、布団の中、寝返りを打って、目をつむり、闇に耳を凝らします。物書きは、寝ていても、文章を書けるのです。便利でしょう? それでは、また。

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