上村元のひとりごと その48:シャボン玉
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
昼食の洗い物をしていたら(鶏飯と、クラムチャウダーでした。もちろん、買ったものですが、食器に移して食べました)、洗剤の蓋を勢いよく閉めてしまい、泡がはじけ、シャボン玉がたくさんできました。
ふわふわと漂う、透明な玉を、しばし手を止めて、ぼんやり眺めました。
苦手なものが、僕を僕へと閉じ込めるものだとしたら、好きなものは、僕を僕から解放し、他人へとひらいていくものだ。
毎日、僕は文章を書いて、ネット上で公開する。できるだけ、悪口は書きたくないので、好きなものを、題材として取り上げるようにはしている。おかげ様で、多くの人に読んでいただいて、ささやかに達成感を味わっている。
ただ、何かが、まだ弱い。
僕の文章は、シャボン玉のように、どこかふわふわしている。とりとめがないと言うか、あと一声、と言うか、繫がらない。十年後、二十年後に残っているか、と言われたら、わからない、というのが、正直なところだ。
こういう場合は、シャボン玉ではなく、シャボン玉の吹き手を見るべき。
書いている僕に、意志がないのだ。
どんなシャボン玉を作りたいのか。色は、形は、大きさは。それに応じて、道具を替え、液の調合を研究し、吹き方を調節する必要がある。
明確なビジョンに沿って作られたシャボン玉と、ただやみくもに吹き出されたシャボン玉では、ものが違う。両者の違いこそ、プロとアマの差。もし、僕に、書くことで食べていくつもりがあるのなら、今は深いその隔たりを、何としてでも埋めなくてはならない。
キッチンには、窓がありません。シャボン玉は、ゆっくりと、僕の息に乗って移動します。憂鬱でもなく、快活でもない、ただの息に。
シャボン玉を吹くことそのものが、ものすごく好きで、一生でも吹いていたい、と願うなら、それはそれで、素晴らしい。
あるいは、星飛雄馬のように、小さい頃からシャボン玉を猛烈に吹かされて、もはや、好きも嫌いもない、生きながらにして、シャボン玉製造マシーンと化すくらいに染み込んでいれば、それもそれで、素晴らしい。
僕は、どちらでもない。
書くことは好きだけれど、まだ、つらさの方が勝る。書いている分量も、もちろん、まるで足りない。
そもそも、何を書いているのか、それすらも曖昧だ。エッセイにしては、硬すぎるし、小説にしては、事実すぎる。散文であることは、間違いがないけれど、体言止めが多く、ですます調と、である調も、統一されていない。
無邪気な愛好家に徹するのか。それとも、何もかもかなぐり捨てて、文章作成マシーンを目指すのか。
ふわふわと、鼻先をかすめるシャボン玉を壊さないよう、息をひそめて、首を振ります。
違う、どちらか、ではない。
二つの選択肢が提示される時、それはたいてい、どちらも僕のものではない。僕が、僕であることから、逃げようとして、頭で拵えている架空の道だ。どちらかに決め込んで、選んだつもりになってはいけない。何も変わらない。僕自身が、変わらない限りは。
なぜ、僕は不安なのか。
それは、目の前の、たまたま生まれたシャボン玉を、きれいだな、と思い、ずっと見ていたい、とうっとりする自分を、裁いているからだ。
いいじゃないか。きれいなシャボン玉、たまたまだろうが何だろうが、ふわふわ漂っていて、本物だ。
僕が作ったようだけれど、僕が作ったものではない。僕自身も、望んで生まれてきたわけではないけれど、生きることを望んで、生きている。同じだ。
自分を文豪だとは思わない。誰にも知られていない天才だとかも思わない。僕はただ、生きている。そのことだけを、書いていきたい。
シャボン玉も、星飛雄馬も、僕も、あなたも。たまたま生まれて、何となく消えていく。このことを現す文章を、僕はまだ、いや、この先もきっと、持つことはない。作ることができる、と思ったら、嘘になる。
ほら、もう、消えていく。バイバイ、シャボン玉。楽しかったよ、ありがとう。
全てのシャボン玉を見送って、洗剤を洗い流し、食器を拭いて、棚にしまいました。今日は何だか眠いので、これから、昼寝をします。それでは、また。
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