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上村元のひとりごと その208:アクアリウム

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 行きたい所が、あるのです。

 そんなに遠くではない。新幹線と、在来線と、車も使って、半日あれば、着く。パスポートもいらない、飛行機も、乗らなくていい。

 頭の中、行き方を、何度もシミュレーションして、Yahooの路線図で、時刻表も検索して、すぐにでも、旅立てる。

 たどり着いて、出てきた人に、開口一番、かける台詞も決めてある。

 僕を、一生、ここで働かせてください。

 微に入り、細にわたって築き上げた、その計画を、しかし、僕は、どうしても、実行に移せない。

 疫病のせいではありません。お金がないわけでもない。

 それをしたら、文字通り、他の全てを、捨てなければならないからです。

 両親に、再会することはないでしょう。伊勢さんたちからの連絡にも、応じることはない。このひとりごとを更新することも、二度とは。

 ぬふっ。

 とてとてとてとて。よじよじ。ばらばらばら。んふーん。

 床に置いた、ホーローのボウルによじ登って、おしりを突っ込み、元気にこんぺいとうをばらまいて、得意げに見上げるミントの頭を、よしよし。よく出たね。撫でてやることも、あきらめざるを得なくなる。

 それほどまでに、僕に対して、絶大な吸引力を及ぼす場所とは。

 水槽です。

 正しくは、ネイチャーアクアリウム、と言います。

 写真家の、天野尚氏が、故郷である新潟県に作った、世界でも類を見ない、巨大水槽の群れを収めた、博物館のような所です。

 容器から、デザインしているのです。

 酸素を送る機械も、水温計も、魚たちに餌をやる道具も、何もかも。

 地球の各地をめぐって撮りためた、それだけでも最高級の自然写真をもとに、流木を組み、砂を吟味し、水草を育て、生物を配し、可能な限り緻密に、その風景を再現した、いわば、立体映像作品です。

 もう、四、五年前になるでしょうか。

 知人のカメラマン、伊勢さんを介して、天野氏の写真集を拝見した時、本気で、めまいがしました。

 行かなくちゃ。強く思った。

 今すぐ、何がなんでも、行かなくちゃ。

 こんな素晴らしい場所と、僕の身体が、かけ離れて存在しているなんて、耐えられない。

 埋めたい。この距離を、どうしても、ゼロ以下まで。

 じいっと見つめるミントの前で、よっこいしょ。重たいボウルを持ち上げ、同じシリーズのタッパーに、ざらざらざら。注いだこんぺいとうの一粒を、ぱくっ。こりこりこり。うん、おいしいよ。

 みににに。てぃるるる。

 安心したように、にこにこ笑って、すっきりしたミントは、とてとてとてとて。ちりんちりん。軽やかに、デートに出かけます。お相手は、もちろん、巨大なピカチュウです。

 当時は、まだ、ミントはいませんでした。

 それでも、何かが、僕を引き止めた。

 勢いに任せて、この世の理想郷へと、まっすぐ突き進むことを、僕は、僕に許さなかった。

 その判断は、間違っていなかったと、今も思います。

 残念ながら、その時すでに、天野氏は亡くなられていましたが、もし、無理を押して、馳せ参じた僕に、お会いになったら。

 きっと、氏は僕を、やんわりと、しかし、断固として、東京へ追い返したはずです。

 私は、君の神ではない、と。

 直径20センチ足らずのボウルを上げ下げして、腰をさすっている僕です。

 どうして、四方を測る単位がメートルであるような巨大水槽と、その中の何トンという水を管理し、何百という魚たちに食事をさせ、清掃し、絶えず温度を一定に保っておくなどという、肉体労働の極みが、引き受けられるか。

 理想と現実を繫ぐものは、信仰でしかあり得ず、実際に、超強力な信仰心で、か弱い肉体をねじ伏せたのが、宮沢賢治です。

 あらゆる意味で、僕は、賢治になれません。

 経典も、先端技術も、文学すらも、今ここに、ミントと一緒に、確かに生きている自分を否定するほど、すごいものとは思えない。

 そのためになら、全部を犠牲にしたって構わない。思う心を、信仰心と言うのなら、あの美しいアクアリウムを、僕は、信じる対象にしたくない。

 というか、できない。

 僕は、宗教者ではなく、物書きだから。

 天井を仰ぎ、ため息をついて、目を開けたまま、祈ります。

 いつも僕をお守りくださって、ありがとうございます。

 あなたを信じていないわけではありません。

 ただ、名前をつけたくない。この世に存在する、どんな名前も、あなたにはふさわしくないのです。

 書くことで、僕は、あなたに仕えます。

 どこにいても、何をしていても、僕は、物書きです。

 あなたが与えてくださった、厳然たる真実に忠実に、僕は、今日も、大事な人たちに囲まれて、のんきに生きていきます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。それでは、また。

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