上村元のひとりごと その206:星の王子さま
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
『星の王子さま』は、サン=テグジュペリによる、人生の報告書です。
彼という人間が、どのように生まれ、育ち、何を見て、何を学び、そして、どのように死んでいくか。
それを、感情を入れずに、あくまでも、報告書として、書き綴ったものが、この作品です。
報告相手は、子供たちです。
といっても、年齢的な子供ではありません。
よく言われるように、大人のなかに住む、子供の部分でもありません。
子供とは、自分の死を知る者です。
一人に、一つだけ、死は用意されています。
どれほど望もうとも、その形を変えることはできません。
生えた葉が、枯れるしかないように、枯れた葉が、落ちるしかないように、自然の理なので、どうしようもない。
『星の王子さま』の主人公は、一見、語り手の「僕」のようですが、そうではなく、あくまでも、王子様です。王子様、すなわち、サン=テグジュペリ自身なのです。
飛行士として、人間のほとんどいない、大自然の上空を飛ぶことの多かった彼にとって、自分の死は、悲しむべきことというよりは、葉っぱの一生のような、外から眺めるものだった。
素敵な金髪の、ちょっと空気の読めない、変なしつこさを持った少年は、自分の星を持ち、活火山と休火山の手入れをして、バオバブの種におびえ、気位の高い美しいバラに振り回されながら、日々を暮らしていました。
でも、空に憧れ、当時としては、命懸けだった飛行の道を選ぶことで、穏やかなその暮らしを、永遠に、離れざるを得なくなった。
いつまでも、続けていたかったその日々に、戻るための手段が、死だった。
砂漠の上、黄色い、細長い毒ヘビに、足首を噛ませて、静かに倒れ、遺体は決して、見つからない。
現実にも、サン=テグジュペリは、偵察飛行中に消息を絶ち、遺体は決して、見つかりませんでした。
ここまで自分の死に忠実で、しかも、その死の形を、それこそ、幼い子供にも、なんとなくわかるような書き方で、作品にできる物書きは、そう多くはいません。大変な天才だと思います。あまりにも、目が、強い。
僕にそれができるか、と訊かれたら。
にーのう。
元気にするめをねだり、炬燵の前、あぐらの膝に収まって、にちにちにちにち。にちにちにちにち。重低音のごとき咀嚼音を響かせるミントがいなかったら、僕はきっと、その方向を目指すしかなかった。
小さい頃、周囲に人がいなさすぎて、静かな部屋に、一種の大自然に、なじんでいたせいで、僕も、自分の死を見るところまでは、できるようになりました。
ベッドではない、床の上、仰向けに横たわって、ぼんやり天井を眺め、誰にも看取られずに、息を引き取る。
間違いなく、それが、僕の死。
僕だけに与えられた、この世を離れる許可証。
ただ、のんきな都会暮らしの僕の目は、練達の飛行士であるサン=テグジュペリほどには、強くありませんでした。
ぶれたのです。
そんなにもくっきりと、見たものを、持ちこたえることができなかった。六年前に星に帰った王子様を、つまりは、リハーサルとしての自分の死を、昨日別れた人のように、思い続けることは、無理だった。
僕は、多分、与えられた、ありのままの死を、死ぬことはできないでしょう。
にちにちにちにち。にちにちにちにち。
サン=テグジュペリには、ミントはいなかった。
予定された死へ、まっすぐ突き進むことを妨げてくれる、可愛い邪魔者は、何がなんでも飛びたい、という激しい欲求にのまれ、かすんで、消えてしまった。
ぬいぐるみの猫の平均寿命を、僕は知りません。
ミントは、いつまで生きるのか。どういうふうに年をとるのか。介護は必要か。病院で診てもらえるのか。
一切合切、全く、わからない。
自分がきれいに死ぬことよりも、ミントがどうなっていくのか、そちらの方が、気にかかる。
物書きとしても、すでにラストシーンが決まっている人生の紆余曲折を、くどくどと、読者にご報告しても、つまらない。
ミントの登場によって、僕の死は、ぶれて、壊れてしまった。
いかなる意味でも、僕は、子供時代に戻れない。「僕」として、王子様の死を語る方向は、決して、目指せない。
にちにちにちにち。にちにちにちにち。
死というものが、自分とは別のところにあって、ある日突然、到来し、跡形もなく、自分を連れ去ってくれると信じていられるのが、子供です。
実は、死は、いつでもそばにあるのです。
ぼけて、ぶれて、しわくちゃになった死を、つまりは、命を、するめのように、何度でも、じっくり噛んで、味わいたい。
地味で単調な人生を、おいしいな、と思えるように、つまりは、立派な大人になれるように、人間として、物書きとして、これからも、精進してまいります。それでは、また。
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