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上村元のひとりごと その24:目覚まし時計

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 目覚まし時計の目覚まし機能を、実は、一度も使ったことがありません。

 鳴らしてみたことはあります。どんな音がするのか、気になって、時刻を合わせ、わくわくしながら待ちました。

 ちなみに、僕の目覚まし時計は、小学生の頃から同じです。四角く、ピンクで、アナログの文字盤に、スヌーピーと、ウッドストックが描いてあります。乾電池を取り替えながら、三十年、今でも充分現役です。

 ジリリリリ、という、報知器のような音を想像していましたが、実際は、ピピピピピ、という、小鳥のさえずりのような音でした。

 ただ、音量は、かなり大きい。ぐっすり寝ていて、突然、耳元で鳴ったら、飛び起きることは間違いない。心臓が乱れ打つことが、あまり好きではなく、したがって、スポーツ一般も苦手ですが、これは、さらに心臓に悪そうだ。以来、目覚まし時計は、僕にとって、置き時計になっています。

 不便は感じません。訊いてみたことはありませんが、おそらく、目覚まし時計自身も、特に不都合はない、と言うような気がします。自分はあくまで時計であり、目覚まし機能は、いわゆる、サービスのようなものだから、と。

 考えてみれば、スマホのアプリも、その全てを使い尽くしているわけではない。僕が主に使用するのは、LINEと、メールと、天気予報くらいで、それでも、僕のiPhoneは、取り立てて文句は言いません。自分はそもそも電話であり、その他の機能は、言葉通り、アプリケーション、応用物だから、と。

 人間と機械を同一に扱っていいのか、という議論は、未だ決着がついておらず、僕のような、完全文系、かつ、倫理哲学はちんぷんかんぷんだった者には、とても扱いきれるテーマではないけれど、あえて、対象を僕だけに限って、断言してみます。

 目覚まし時計が時計であるように、スマホが電話であるように、僕は、物書きである。

 ただ、人間が機械と違うのは、使い手を想定するかどうかで、例えば、目覚まし時計も、スマホも、ユーザーは僕です。しかし、個々の人間には、固定的な使用者はおらず、強いて言えば、労使関係がそれに相当しますが、たとえ被雇用者といえども、二十四時間、存在の全てを、雇用者に預けているわけではない。あくまで、形式であり、期間限定の使用です。

 僕にも雇い主があり、賃金の受け渡しがあり、その意味では、僕は、社会的機能としてのライターですが、ここで言いたいのは、それではない。

 フランスの詩人、アルチュール・ランボーは、「見者の手紙」と呼ばれる書簡のなかで、私とは一つの他者である、と書きました。木片がある日、自分がバイオリンであることを発見したからといって、何の不思議があろうか、と。

 なりたくてなったわけではないのです。気づいたら、物書きだった。

 多分、目覚まし時計も、スマホも、ランボーも、気づいたら、時計であり、電話であり、詩人だったのだと思います。

 アイデンティティは、自分では選べない。最も信頼すべき己の基盤が、誰からとも知らず、いつの間にか与えられている。これこそ、人間と機械に共通の、永遠に解けない矛盾です。

 しかも、僕とランボーは、広い意味では同じ物書きですが、僕はランボーになれないし、ランボーも、僕にはなれない。

 僕に詩は書けないし、アフリカを放浪することもできない。酔っ払ったヴェルレーヌに撃たれることもないし、地獄の一季節を幻視することもない。

 ランボーは日本語を知らなかっただろうし、東京の下町の飲食店街を巡り歩き、うかがったお話を記事にまとめることもない。疫病で失業の危機にさらされ、やむにやまれず、身辺雑記をnoteに書き連ねることもない。

 目覚まし時計はスマホになれないし、スマホは目覚まし時計になれない。僕の目覚まし時計と、あなたの目覚まし時計は、交換はできても、代わりにはならない。

 人の数だけ、物の数だけ、アイデンティティがあるのかと思うと、壮大すぎて、めまいがするほどです。どうぞ、ご自分に与えられた芯を、大事にしてください。それでは、また。

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