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上村元のひとりごと その243:忘年

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 父が、認知症で、施設に入ったと聞いてから、記憶について、ずっと考えてきました。

 あえて、具体的な病状について、母に尋ねたことはないので、父が今、どういう状態にあるのか、わからない。

 要介護4、といっても、動くのに不自由なだけなのか、それとも、もはや、母の顔も認められなくなるくらい、脳にダメージが来ているのか。

 実のところ、未だに、信じられないのです。

 思い出の中の父は、常に物静かで、新聞や、書類や、文庫や、とにかく、活字を読んでいます。

 幼い僕が、少し大声を上げると、ごく平坦に、ここは、公共の場だ。騒ぎたいなら、自分の部屋でしなさい。決まり文句のように、つぶやいて。

 大手不動産会社に勤めていたのに、公務員のように、毎朝七時に出勤して、夕方七時に帰宅した。

 残業やら、飲み会やらを、どのように処理していたのか。

 あんな無口で、友人とか、いたんだろうか。

 休みの日も、平日と全く同じ、タイムスケジュールをこなして、いつだって、身なりはきちんとしていて、僕が食べこぼしたりなんかすると、拭きなさい。みっともない。こちらを見ずに、母に、布巾を持って来させていたのに。

 …徘徊とか。粗相とか。

 本当に?

 嘘でしょう、父さん?

 ぎにー。

 めまいがして、よろけそうになり、腕の中、パーカーの紐にじゃれついていたミントに、思わず、しがみついてしまって、ものすごいクレームをいただきました。すみません。気をつけます。

 ぶんむくれの、青緑色の毛皮を撫でて、平謝りに頭を下げたら、ぽろりと、涙。

 だって、じゃあ、あの十八年間は、なんだったの?

 父さんの気に障らないよう、ひたすら、息を詰め、立居振る舞いに気を遣って、忍び暮らした、あの日々は?

 本当は、暴れたかったの?

 親に言われたか何かで、苦しいけれど、耐えて、そうしていたことだったの?

 だから、年をとって、我慢の限界に達して、病気の力を借りて、したかったことを、今さら、叶えているの?

 それなら、もっと早く、そう言ってよ。

 うんと、うるさくしてあげたのに。

 しつこいくらい、質問攻めにしたり、遊びに連れて行ってって、ねだったり、いい加減にしろって、怒鳴るくらい、それでも、めげずにくっついて回るくらい。

 そうすれば、今、こんな、離れて苦しい思いなんて、しなくて済んだのに。

 どうして、父さん。どうして。

 涙が止まらなくて、鼻水も吹き出して、ミントに垂らしそうになって、慌てて、ティッシュで吸い取ります。

 強くかんだら、粘膜が切れたらしく、うっすらと、血が混じる。

 血も、涙も、あったんだ。

 父に関して、クールに割り切っていたつもりだったのに。

 ぬふーん。くふーん。

 あっという間に、機嫌を直して、僕の肩によじ登り、ぐしゃぐしゃの顔面をものともせず、べったりとしがみつき、頭頂部に達して、満足。ぽたぽたと、しっぽを振って、僕の耳をくすぐります。

 ミントのように、あっさり、忘れたい。

 いや、ミントだって、捨てられて、怖かった記憶は、時折、めぐってくるみたいだから、羨んではいけない。

 ミントみたいに、今、ここにないことは、ないものにしたい。

 前の飼い主のことを、どれだけ覚えているのか、わからないけれど、少なくとも、二度と目の前には現れないので、それは、忘れたと同じこと。

 おそらく、父が息を引き取るまで、たとえ疫病が終息したとしても、会いに行けない、いや、会いに行かないので、それは、忘れたと同じこと。

 さんざんだった、今年とともに、時の彼方に、手放すのだ。

 泣けばいい。

 思い出すたびに、こうやって、何度でも。

 それは、仕方ない。その意味では、決して、忘れることはない。

 でも、それはみんな、あくまでも、過去を悔いているだけ。

 今ではない。

 父との現在を、更新することは、もう、ないのだから。

 つるんこ。すってん。

 …。

 むがぐわもがぢしゃー。

 絶対、やるな。思っていたら、実際に、やってくれて、泣きながら、思いきり、吹き出します。

 痙攣したように、笑いながら、脚を滑らせて、床に叩きつけられ、怒りと痛みにマジ切れのミントを、抱き上げて、高い、高い。子供のように、あやします。

 何度言っても、治らない。

 ミントは、いつでも、滑ります。

 いいんです。

 そのたびに、慰めてあげるよ。

 好きなだけ、滑りなさい。

 死ぬ時に、未練がないように。存分に、滑ったなと、納得して、あの世に旅立てるように。

 年の瀬は、無念を解消する、いい機会です。

 思い出が、溢れてきたら、充分、溺れてください。それこそが、心の大掃除なのです。それでは、また。

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