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上村元のひとりごと その201:動体視力

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 動いているものを、ぼんやり眺めるのが、好きです。

 相手は動いているので、いまひとつ、焦点を合わせられない。そのものが、くっきりと見えるというよりは、そのものの、移動する軌道が、空間に、目には見えずに、しかし、くっきりと、残像のように描かれる。

 そこに、静止している時には見えない、そのものの、別の姿が現れて、とても面白いのです。

 ミントは、青緑色の毛皮ですが、起きて、動き回っていると、その色は、白っぽい。クリームソーダのようです。

 でも、ぴーぷす、ぴーぷす。こんなふうに、するめをかじり終えて、満足して、寝落ちしているミントは、濃い。

 ミントブルーという名前の絵の具を、ぎゅうとしぼって、そのまま塗りつけたみたいな、こってりと、重たい感じがする。

 こんな色だったかな。じっと見つめると、かえって、よく見えなくなります。

 どうやら、僕の目は、立体を、凝視することに向いていないらしい。

 絵を描くのが、壊滅的に苦手なのも、多分、その辺に原因があって、つまり、静止視力より、動体視力の方が、高い数字なのだと思われる。

 眼鏡を一度もかけたことがないくらい、視力そのものに問題はないのですが、小学校の視力検査では、毎年、苦戦していました。

 瞬時には、ピントが合わないのです。

 見えるのだけれど、時間がかかる。もたもたしていると、先生に、見えないのだろう、と判断され、悪い結果をもらって、しょんぼりと、眼鏡店に行くと、両眼とも、1.0。

 紙に書かれた記号は、静止しています。

 眼鏡店で目に当てられる機械は、かしゃかしゃと、動いてくれます。

 動いているなら、見えるのです。

 それでは、静止している文字を読んでいく、読書はどうしていたのか、というと、実は、文字そのものを、見てはいない。

 頭の中に、音を鳴らして、そちらを聴いていたのです。

 紙を、ちらっ。あいうえお、だな。よし。あいうえお、と。

 また、ちらっ。かきくけこ、か。よし、かきくけこ、と。

 細切れに、文字をちらちら、動かすように見て、意味の方は、音で繫いで、脳内再編成を行い、そのようにして、まとまった文章を読んでいました。

 今、大人になって、パソコンに向かい、キーボードを打って、文字がぽつぽつ、動きながら並んでくれるので、とても助かります。

 頭の中、浮かんだ言葉を、手を動かして、文字にして。浮かばなくなったら、手を止めて、ぼんやりして、また浮かんできたら、また手を動かして。

 そうやって書いていけば、疲れません。いつまでも、書いていられる。

 絵を描くとは、瞬間を、永遠に固定する行為です。

 僕には、瞬間を捉えることもできなければ、捉えたものを固定できる技もない。それでは、どうやったって、描けないはずです。

 ぴーぷす、ぴーぷす。元気に背中を上下させながら、膝の上、丸まって眠るミントを、描いてみたいと、何度もチャレンジしたのですが、そもそも、僕には、ミントが静止している時の形が、よくわかっていない。

 写真を撮ればいいじゃないか。あるいは、動画を。

 いや、映像はまた、少し違う。

 確かに、完全に静止してはいないのだけれど、やはり、どこかで、おそらくは、シャッターを切られた瞬間に、固定されている。

 死んでいる。

 そう、僕の目が、本能的に、ピントを合わせるのを嫌うのは、静止することが、ただちに、死を連想させるから。

 殺したくないのです。

 どのみち、僕は、初めから、動けないという感覚がある。深い海の底、砂の上に横たわって、ぼんやりと、水面の方を眺めている。それが、基本姿勢。

 自分が、死に近い、あるいは、すでに死んでいるからこそ、目に映る人や、物には、生きていて欲しい。動いていて欲しい。

 文章を書くことによって、題材とするものを、紙の上に、画面の上に、永遠に打ち付けてしまうのなら、どれだけ労力を費やしたものであっても、すみやかに、裁断したいと願います。

 ただ、聴いていただければ。

 ミントの立てる寝息のように、くだらないと言ってしまえば、それまでである、もそもそと、役に立たないつぶやきとして、このひとりごとを、聞き流してくだされば、幸いです。それでは、また。

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