上村元のひとりごと その175:天職
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
自分は物書きだ。と書くのはやめよう。と、何度も思いました。
noteに、記事を発表させていただいている以上、僕が物書きであることは、どなたにもわかる。ならば、あえて、僕は物書きです。おことわりする必要は、どこにもない。
羽生善治氏が、僕は将棋指しです、と、繰り返しおっしゃるだろうか。それよりは、黙って、あるいは、同業者と意見を交わしながら、将棋を指すこと、そのものに集中することをお選びになるだろう。
将棋指しも、物書きも、職業としては同等であるからには、羽生氏を見習って、僕も、黙って、あるいは、同業者の意見を聞きながら、文章を書くこと、そのものに邁進するべきである。
理屈のうえでは、そうなのだけれど、いまひとつ、ふに落ちない。
というのも、物書きは、いつも不安だから。
言葉なんて、誰でも使えるじゃないか。わざわざ、それを職業にして、食べていけるのか。
いや、めったなことでは、難しい。
それなら、もっと奇抜な単語を使ったり、度肝を抜くような主張をして、読者を驚かせ続けなければ。なにせ、自分は物書きなのだから。そうでしょう? 物書きですよね? 書いていて、いいんですよね?
と、もはや誰に言っているのかわからない問いに、溺れて、膨大な言葉たちの群れに、襲われて、混乱し、迷走し、しまいには、何も書けなくなる。自分で、自分の首を絞める。
自己定義なんか、やめてしまえ。もっと気楽に、ただ、趣味ですから。そんな気分で、書けばいい。その方が、自分は物書きだ、なんて、興味もないことを、いつまでも聞かされる読者のためになる。
まあ、それはそうだけれど、でも、やっぱり、つい書いてしまう。
よじよじ。ぴとん。ずっしり。むふーん。
僕の背中に爪を立てて、這い登り、最も不安定な頭に到着し、全体重を預けて、しがみついて、満足。実に不合理なことをする、ミントみたいに。
何もしないと、ミントの乗った頭は、ジェンガみたいに、ぐらぐら。下手をすると、首が折れる。
折れないように、細心の注意を払って、ふんばります。
炬燵にあぐらで、背筋を伸ばし、なるべく均等に負荷が分散するよう、小刻みに動いて、調整する。腕の置き場所とか、足の組み方とかまで気を配り、全身を使って、奮闘する。
多分、これと同じです。
自分は物書きだ。そう書くことは、ぬいぐるみの猫を頭に乗せること。基本的には、しなくてもいい、いや、むしろ、しない方がいいこと。
しかし、よくよく見れば、ほんの少し、ほころびが。
僕が、ミントを、自ら乗せたのではない。ミントが、自分の意志で、乗っかってきたのです。
僕は物書きだ。そう書いているのは、僕ではない。物書きだ、その言葉が、文章の中に、いつでも、割り込んでくる。
僕は、僕について、外側から観察することはできません。僕が物書きかどうかを決めるのは、僕以外の方々です。
ということは、僕は物書きだ、と名乗っている僕は、僕ではない。
僕が、言葉を使っているのではない。言葉が、自分で、物書きだ、と名乗っているのです。
何度も、何度も、うんざりするくらいになって初めて、ああ、そうか。僕は、物書きなのか。認識するのが、天職。
残念ながら、天職を辞めることは、できません。
あまりに重いので、降りてもらおう。ひそかにもくろんで、そうっと、腕を持ち上げて、引き剝がしを試みるのですが、べったり。接着剤でくっついているのか、と思うくらい、離れない。
理由は、わかりません。
ミントが乗っているのも、自分が物書きであるのも、さっぱり。
儲からないし、無駄に体力を使うし、さんざんなのですが、仕方ない。そうなってしまったものは、受け入れるしかない。
唯一の救いは、僕が、ミントも、書くことも、とても愛していることです。
好きだから、その仕事をするのではない。いつも、いつも、その仕事をしているうちに、好きになった。
好きだから、一緒にいるのではない。いつも、いつも、一緒にいるうちに、なくてはならない存在になった。
きっと、誰にでも、そういう人や物は、ある。
当たり前みたいにそばにいる、そうしたものを、大事にすること。それが、自分では見えない自分自身を、大事にすることになるのです。それでは、また。
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