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上村元のひとりごと その29:天ぷら

 こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。

 書くことが好きか、と訊かれたら、そうでもない、と答えます。

 僕が書いた文章を、当たり前ですが、僕は全部、読んでいます。この世で一番、熱心な読者です。

 書き手も楽しく、読み手も嬉しい、そんな幸福は、稀です。

 たいていは、書き手が舞い上がって、読み手がついていけない。あるいは、書き手が盛り下がって、読み手ががっかりする。このどちらかです。

 はしなくも、元ライターなので(そう、今や、職業まで、「元」を名乗らなくてはなりません)、最低限、読める文章は提供しているつもりです。

 取材先の、天ぷら屋のご亭主が、何はともかく、まずいものだけは出しちゃいけないって、それだけですよ、気をつけてるのは、と仰っていたことが、常に、僕の胸にあります。

 ただし、創業三百年、老舗の暖簾を背負ったご亭主とは違って、僕はまだ、ありきたりな物書きです。まずくならないようにと、そればかり考えて書くと、何の面白味もない、のっぺりとした文章が出来上がる。いまいちの穴、破滅への道が、舌なめずりして僕を呼ぶ。

 預金があるだけでは、駄目なのです。働かなくては。働いて、新しいお金を流し込み、元のお金を押し出して、健やかな循環をもたらさないことには、生きている実感は得られない。

 舞い上がる時、盛り下がる時、いずれも、書き手はサボっている。

 聞きかじりの名言を、寄せて集めて、自分の新知見であるかのように、つぎはぎする。無駄に自己卑下を繰り返すことで、自分をも批評できる賢者であるかのように、アピールする。

 もちろん、意図的にこんなことをしたら、犯罪です。楽だから、つい、そうしてしまう。疲れていれば、特に。

 どれほどへとへとでも、天ぷら屋のご亭主は、命ある限り、厨房に立ち、具材を揃え、油を火にかけ、無心に天ぷらを揚げるでしょう。人間のお客が来なくても、彼は毎日、神様に、美味しい天ぷらを差し上げているはず。

 これが、真に、働くということ。サボっている暇など、ありません。

 普段は、パソコンデスクに椅子座ですが、多分、もう、それではいけない。

 炬燵の上、雑多に散らばるものをどかし、雑巾を絞って、丁寧に広げ、隅々まで拭き清めました。

 乾いた布巾で二度拭きして、MacBookを据え、へたれた座布団をぱんぱん叩いて、ふくらませ、ラジオに向かって、正座です。

 目を伏せて、呼吸を整え、リンゴマークに、片目を映す。

 僕は、文章で、天ぷらを揚げたい。

 揚げたての、熱々を、お届けしたい。人間の皆さんに、できるなら、神様にも、召し上がって欲しい。

 文章において、師匠を持たない僕は、厳しい修行を経ないまま、ライターとして対価を得てしまった。その報いが、失業による貯蓄の切り崩しという形で、降りかかっている。

 今、過去の肩書きを振りかざして、目先の収入のために、腰掛けの職を得たら、僕は、確実に、なけなしの才能を失うだろう。そのようにして失ったものは、もう二度と、来世にあっても、戻って来ないだろう。

 失いたくない。失ってはいけない。育てるのだ。ちっぽけなこの芽を、葉むらの優しい大樹まで。

 顔を上げて、背筋を伸ばし、ラジオに、じいちゃんに、呟きました。

「僕は、書きます」

 後には、何も、続かなかった。一言だけの、誓いでした。何を書くのか、それすらも、わからない。絶望的な勝率の低さ、それでも、僕は、賭けてしまった。

 発された言葉が、リンゴに落ちて、銀の皮が、一瞬、わずかに波打った。

 吉兆と、無理にでも解さないと、持ちこたえられない。それくらい、むき出しの、震える魂。

 たった一つの天ぷらが、たった一つの言葉が、誰かの命を、繫ぐかもしれない。そんな文章が、書けますように。それでは、また。

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