上村元のひとりごと その203:真剣
こんにちは、上村元です。よろしくお願いします。
前世というものがあるとするなら、僕は多分、武士だったのでしょう。
本気で書こうとすると、両手が、重くなる。
目の前に、抜き身の真剣。
握って、構えているのは、僕。
振り払っても、振り払っても、このイメージは、つきまといます。白銀に波打つ、なめらかな刃紋まで、くっきりと、見て取れる。
ちなみに、僕は、包丁が苦手です。
できれば、持ちたくないのですが、一人暮らしなので、仕方ない。なるべく、太刀を連想させない、お手軽な、小ぶりのものを使っています。
研ぐのも、できるだけ、甘く、切れ味がいまひとつかな、というところに留めるようにしている。
すぱん、と切ると、ぞっとするのです。それはもう、本能的に。
イメージの中、刀を握っている僕は、全身全霊で、抵抗しています。
気が狂いそうなくらいに、暴れまわりたいくらいに、叫び出したいのをこらえている。
嫌だ、と。斬りたくない、と。
だが、刀はすでに、抜かれている。
抜かれた以上、それは、振り下ろされなければならない。
両眼は、見開かれ、ちらちらと動く獲物を狙っている。どこを斬ればいいのか、手に取るようにわかる。後は、踏み切るだけ。
でも、嫌だ。どうしても、嫌なんだ。
ひどい時は、冷や汗をかいて、動悸が激しくなり、炬燵に向かっていられなくなります。
胸を押さえ、架空の、しかし、ずっしりと重たい刀を抱えるようにして、床に倒れ、発作が果てるのをひたすら待ちます。
病院に、それも、神経科に、行った方がいいのでは、というレベルです。
ありがたいことに、まるで空気を読まない猫が来てくれてから、だいぶ楽になりました。
転がって、うめく僕に、すかさず、とてとてとてとて、ちりんちりん。駆け寄って、とてっ。腰の辺りに飛び乗って、ぐいぐい。重ねた腕の隙間に、無理矢理、顔をねじ込んで、むふーん。抱っこの状態にして、満足し、ぽたぽたとしっぽを振りながら、がすがす。容赦なく、アッパー頭突きを繰り出してきます。
どれほど、自分を斬ろうと思ったことか。
自害してしまえば、おしまいです。誰も斬らなくていい、死ぬほどの苦しみも味わわなくていい。一挙両得なのです。
しかし、じゃあ、ミントは。
僕が死んだら、この、ちょっぴりお間抜け風味の、ぬいぐるみの猫は、誰が面倒を見るのだろう。
違う、そうではない。僕は、ミントを、誰にも渡したくない。最後まで、僕が、僕だけが、ぽさぽさアッパーを受けるのだ。
嫌だ、嫌だ。斬りたくない。
そんなに嫌なら、刀を捨てれば。
…捨てる?
涙にかすむ目で、もう一度、刃を見つめます。
今の僕には、もう、この刀の名前がわかりません。この人生、真剣を手に取ったことは、まだ一度もない。
実際に、持っているものなら、すみやかに捨てられますが、イメージの中で、吸い付くように、手のひらに食い込んでいる、死ぬほどの重みを、どうやって、捨てるというのか。
月に一度、500字以内で、コラムを。
伊勢さんとお仲間の、ウェブマガジンからの依頼は、それだけ。
それだけのために、こんなにも、苦しんでいるなんて。
んふーん。
気持ちよさそうに伸びている、青緑色の毛皮を抱きしめて、すすり泣き、小さく丸まり、床の埃にまみれます。
全ては、終わったことなのだ。
僕がかつて、武士だったとしても、今の僕は、単なる物書き。
ここに、刀はない。安い、なまくらな包丁が、台所の物入れの扉に、静かに眠っているだけ。
大丈夫。君はもう、人を斬らなくていいんだ。
頼まれたからには、期待に応えて、立派な文章を書かなければならない。そんなふうに気負うから、無理が出て、できないことをしようとする羽目になる。
人を殺してまで、素晴らしい作品が書きたいか。
苦しみを治めるためになら、自分を傷つけても平気なのか。
よく考えるんだ。
物書きとして、目指すところは、どこなんだ?
ぬがー。
振り落とさないよう、大きなおしりをしっかり支えて、それでも、急な体勢の変化にびっくりされ、ぶち切れられ、やみくもパンチを繰り出されながらも、起き上がり、姿勢を正して、炬燵に向かい、涙をぬぐって、書き始めます。
刃は、いつでも目の前に、手の中にあります。
死ぬまで、振り下ろさないでいられるか。それが、僕が僕に賭した、生涯の課題です。それでは、また。
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